電子や陽電子を絶妙に「蹴る」
まるで宇宙空間のように空気が薄いパイプの中を、電子のかたまりがビュンビュン走っている。このかたまりは「バンチ」っていう名前がついていて、まるで葉っぱみたいな薄っぺらで細長いかたちをしてるんだ。一周3 kmのパイプには、約2 mおきに千個以上のバンチが詰め込まれていて、その状態でぐるぐる回っている。バンチの中には電子がうようよいる。
隣のやはり一周3 kmのパイプでは、似たような「陽電子」のバンチが反対向きに走りすぎていく。陽電子というのは聞きなれない名前かもしれない。電子に似ているけど、電子がマイナス(陰)の電気を持っているのに対して、プラス(陽)の電気を持つから、陽電子だ。
実はこの2つのパイプはある場所で交差するようにつながっている。電子のバンチと陽電子のバンチは、その交差点でタイミングよく鉢合わせするように仕組まれている。しかも、電子や陽電子は、ほとんど光の速さで走っていってタイミングを合わせてぶつかる、道路ではちょっと考えられないけど、これがバンチの交通ルールだ。
電子と陽電子の一番大事なミッションは、できるだけ多く相手とぶつかるってこと。バンチの中には電子や陽電子がうようよいるから、交差するだけで簡単にぶつかってしまいそうだけど、実はそうではない。一つ一つがものすごく小さくて、すきまがたくさんあるから、バンチ同士が交差しても電子と陽電子がぶつかる可能性は意外と低いんだ。
電子と陽電子が守るべき交通ルールは他にもある。交差点以外の場所でぶつかってはいけない。パイプ間を移動してもいけない。だから交差点付近ではパイプはまっすぐで、きれいなXの字の形をしている。
「普通の交差」という図を見てほしい。普通にX字交差点を通り過ぎると、バンチ同士の重なりはほんの少ししかない。これではぶつかる可能性も少ない気がするよね。
それじゃあ、バンチを少しずつ斜めにして、交差点でピッタリ重なるようにしたらどうだろうか。
「そんなことできるの?」と思ったそこのあなた。それができちゃうんですよ。しかもその方がぶつかりやすさ倍増というシミュレーション結果も出てるんだ。これはやってみるしかないね。
どうやるかというと、バンチの頭とお尻を水平方向逆向きに「蹴(け)る」。もちろんうまく加減して、だけど。そうすると少しずつバンチが向きを変えて、ちょうど交差点に着くときにお互いピッタリ重なるってわけ。
パイプの途中にふくらんだ部分を作って、バンチを操作するための空間を作ることができる。これはそのままずばり「空洞」と呼ばれているんだけど、超伝導と高周波をうまく操ってバンチに斜め横歩きをさせる空間こそが「クラブ空洞」なんだ。
クラブはcrab(カニ)。バンチはカニみたいに真横に歩くわけではないけど、1988年にイギリス人のPalmer博士がこの方法を考案、「クラブ交差」と名付けて発表して以来、ずっとそう呼ばれている。
実は世界で初めてこのクラブ交差を実現し有効性を実証したのは、2007年、小林・益川理論を実証したあとのKEKB加速器なんだ。電子と陽電子を勢いよくぶつけるのは、そのときに起きる現象を観察するためだったんだね。Bファクトリー実験は続いていて、新しい物理を探究していくためには、より多くの実験データが必要だった。そして、より効率よく電子と陽電子をぶつけるために選んだ方法の一つがクラブ交差だったんだよ。世界初の挑戦だったから試行錯誤の連続だったけど、KEKの加速器チームは短期間でそれをやり遂げたんだ。
クラブ空洞の実物は上野の国立科学博物館(地球館地下3階)に展示されています。
国立科学博物館
常設展示データベース「クラブ空洞」
クラブ空洞の設計と高周波制御に携わったKEK加速器研究施設の赤井和憲名誉教授は、実験本番中に直面したビームの不安定さの原因を考え続け、解明して2023年に論文を発表しました。新しい加速器にクラブ交差を取り入れようという動きは、現在、世界各地にあり、KEKで培われた経験や知識が役立っています。