【KEKエッセイ #46】記憶の奥底にある”緑色の画面”

KEK-PS 8GeV達成記念集合写真(左の白いジャケットの方の右から顔を出しているのが鎌田名誉教授)
KEK-PS 8GeV達成記念集合写真(左の白いジャケットの方の右から顔を出しているのが鎌田名誉教授)
KEKは今年で創立50周年を迎えました。KEK最初の加速器KEK-PSで研究者生活を始めた私にも、研究者として48年の歳月が流れました。そんな私に広報室長から「今回のエッセイはKEKの研究生活で一番うれしかったことを書いてください」との注文がつきました。ということで、私が初めて経験した加速器研究者の喜びの瞬間を書きたいと思います。(名誉教授 鎌田進)

1976年3月4日の深夜。KEK-PSのコントロール室で、2.5秒毎に眩しく緑色に発光するストレージ・オシロスコープの画面を私は凝視していました。ここぞという瞬間を狙い、ポラロイドカメラを構えて。画面の横軸は時間、縦軸には偏向磁石の磁場と陽子ビーム強度が表示されていました。昼間は機器の改修や調整に明け暮れ、陽子ビームにじっくりと向き合うのは夕方から夜間。そんな生活が年明けから連日続いていました。画面でブースターリングから入射されたビームが損失を続けながら磁場の坂を駆け上り、「登り坂半ばのある箇所」で全てのビームが失われていく様子を、ひたすら見続けていました。やや離れた別棟のRF室では、高周波加速グループや回路の専門家たちがいろいろ調整を試みては、コントロール室と電話で情報を交換していました。

当時は計算機による制御システムが未発達で、きめ細やかな調整はローカル制御盤を備えた別室で進められることが多かったのです。前段加速器、リニアック、ブースター、ビーム輸送系、磁石電源、真空、高周波加速など、全周300メートルの加速器周辺には、各種装置用の別室が点在していました。一方、コントロール室には加速器全体の安全やビームに関わる情報が集約され、分散設置された別室と互いに電話で連絡を取り合ってビーム調整を進めていました。

連夜の緊張と疲労困憊が常態化しているなかで、その夜突然、オシロの画面で1発のビームが磁場の坂道を登り切ってフラットトップ(磁場平坦部)である最高エネルギーの8GeVに到達しました。「おっー」とざわめく声のなか、私はすかさずオシロスコープを保持モードに切り替えて画面を撮影。しばらくするうち、ビーム損失はあるものの頻繁にフラットトップに到達するようになりました。

8Gev達成の成果を所外に居る関係者に連絡して、この日のビーム調整作業は終了。そのうちに、8Gev達成の情報を聞きつけた研究者たちが、どこからともなくコントロール室に駆けつけてきました。この瞬間のために秘かに準備されていたワインを開け、居合わせた全員で乾杯、記念写真を撮影しました。これが、高エネルギー物理学研究所(高エネルギー加速器研究機構の前身)が発足した理由である「8GeV陽子シンクロトロン加速器」が、所期性能に到達した記念すべき瞬間でした。その後、私たちは予算枠内でのより高いエネルギーの実現を目指して創意工夫を積み上げ、最終的に12GeVのビーム強度で通常運転が行われるまでになったのです。

ところで「登り坂半ばのある箇所」の正体はいったい何だったのでしょう。粒子を加速器で加速すると、粒子速度が速くなると同時に運動量も大きくなります。ビームを一定の円軌道に保持して加速するシンクロトロン加速器では、加速で大きくなる運動量に比例して磁場を強くし、そして速くなる周回速度に比例して加速用高周波の周波数を高くします。ビームの実態は大量の陽子の集団で、個々の陽子のエネルギーにはバラツキがあります。そんな陽子ビームの全体をまとめて安定に加速するには、ビーム内の低いエネルギーの陽子には加速電圧を多く、高いエネルギーの陽子には少なく与える必要があります。加速電圧の位相を選択することで、それを実現できるというのがシンクロトロン加速器の基礎となる「位相安定性原理」です。

実はここで困ったことが起こります。1960年頃には「強収束の原理」が発見されました。この原理の採用で、今に続く大型シンクロトロン加速器が現実のものになった重要な発見です。しかしその一方、この原理を採用した陽子シンクロトロンでは、大きく建設コストに影響する特別な工夫を加えない限り、加速の途中で安定加速に適した位相が反転してしまいます。この反転が起きるエネルギーを「遷移エネルギー」といいますが、陽子が光速近くまで加速されると速度増加が頭打ちになる相対論的効果が原因です。そこで遷移エネルギーを越えるタイミングに合わせて、加速高周波の位相をシフトすることになります。それだけでも大変なのに、さらに遷移エネルギーを通過する付近ではビーム強度に関係した不安定現象も起こります。これが「登り坂半ばのある箇所」の正体だったのです。

ビーム運転上の関所を乗り切った加速器研究者の歓喜あふれる気持は、冒頭の写真の職員たちの表情からも分かっていただけるかと思います。

コントロール室での乾杯から3年ほど遡る1973年4月2日の早朝。私は上野発下り常磐線に乗って就職先の高エネルギー物理学研究所に向かっていました。車内では、当時加速器研究系主幹だった西川哲治先生から宿題として指示された、クーラン・シュナイダーの論文と格闘していました。強収束の原理を紹介したその論文では、遷移エネルギーについても触れていました。その時、「こんな現象があるのにBNLやCERNは、よくAGSやCPSの建設に挑戦したものだ」という感慨を持ったことを覚えています。土浦駅で下車、KEKがチャーターする通勤バスに乗り込み、KEKに到着。そのゴルフ場跡地に建つ旧クラブハウスが職場であり宿舎でした。

自身が関わった加速器の完成に立ち合うことは加速器研究者として最高の喜びです。つくばキャンパスではKEK-PSに引き続き、フォトンファクトリー、TRISTAN、KEKB、SuperKEKBとシンクロトロン加速器の計画が順次進められました。しかし、これらはみな電子加速器なので遷移エネルギーが存在しません。電子は、陽子の約2000分の1という軽量のために、簡単に相対論領域に加速され、シンクロトロン加速器に入射された時点で既に遷移エネルギーを越えています。一方、東海キャンパスに建設されたJ-PARCは陽子ビームのシンクロトロン加速器ですが、ここでは敢えて特別なビーム収束構造を採用して遷移エネルギーを回避しています。この背景にはKEK-PSで散々苦労した記憶があったはずです。

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