いま、空前の量子ブームです。そのきっかけの一つが、2019年10月にグーグルが「量子超越を実現した」という論文を公開し、量子コンピューターへの期待が一気に高まったことかと思います。なにしろ、最新のスーパーコンピューターで一万年もかかる問題を、何と200秒で解くことができるのですから。なかでも量子相関(もつれ、エンタングルメント )の利用には大きな可能性があります。一方、量子を利用するという観点から言うと、私たちが日夜研究している「量子ビーム科学」が持つ可能性も相当なものです。今回は、量子ビームの有用性についてその原理からお話ししましょう。(物質構造科学研究所 村上洋一)
私が所属している物質構造科学研究所では、高エネルギー加速器で作り出した4種の量子ビーム(放射光・中性子・ミュオン・陽電子)を利用して広範な物質・生命科学の研究が行われています。量子ビームとは、光子、電子、中性子などの量子性(粒子と波の両方の性質を併せ持つこと)を持つ粒子の流れの総称です。量子ビームを物質に照射し、そこから跳ね返ってくる量子ビームを分析することで、他の実験手法ではとうてい得られない物質の詳細な性質が分かります。
強力な磁石を作る研究を例にとって説明しましょう。まず、従来の知識を基にしてよい磁石となりそうな物質を合成します。次に、合成した物質がどんな磁気的性質(磁化や保磁力など)を持っているか調べます。そして、この物質がなぜそのような磁気的性質を持つのか、その物性発現機構を探ります。物性発現機構が解明できれば、どうすればより強力な磁石が作れるのかも分かります。この物性発現機構の解明に威力を発揮するのが量子ビームなのです。
物性を決める要因を端的に言うと、物質を構成する原子の位置(結晶構造)と物質中に広がった電子の状態(電子構造)です。量子ビームを利用すると、この結晶構造と電子構造が精密に決定できます。その構造と物性を対応させることで、なぜその物性が発現するのかという物性発現機構が推測できます。さらに、欲しい物性を得るためにどんな結晶構造と電子構造が必要かも予測できます。
物質は電子と原子核という量子からできています。これら量子の構造と状態を決定する測定プローブにも量子が必要です。このことは、有名なリチャード・ファインマンが量子コンピューターのアイディアを出した時の言葉「自然をシミュレーションしたければ量子力学の原理でコンピューターを作らなければならない」を想起させます。
量子ビームは粒子と波の性質を併せ持っているため、物質全体での平均の構造や状態を知るためには波としての性質(干渉現象など)を利用し、一方、物質の局所的な構造や状態を知るためには粒子としての性質(吸収・散乱現象など)を利用します。平均構造と局所構造の両方を知ることで初めて物性発現機構が理解できます。磁石などの不均一な構造を持つ物質では、ナノからミリ領域までの階層的な局所構造を知ることが重要になります。
放射光(光子)、中性子、ミュオン、陽電子をそれぞれ単独で使うことで多くの有用な情報が得られますが、これら複数の量子ビームを組み合わせて使えばさらに深遠な物性発現機構を探れます。私たちは量子ビームの相補的利用を、さらには協奏的利用をすることを狙っています。
相補的利用とは単独の量子ビームからの情報では足りない部分を、別の量子ビームからの情報で補う手法です。例えば、放射光によるX線回折実験では水素など軽元素の構造決定は苦手ですが、中性子回折実験ならば精密に水素の位置を決められます。つまり、二つの回折実験を組み合わせると精密構造解析が可能になります。協奏的利用とは、単独の量子ビームから得られる情報の足し算ではなく、掛け算にして相乗効果を作り出す利用法です。つまり、複数の楽器のハーモニーで、単独の楽器では得られない高次元の感動を生み出す手法なのです。
物質の構造や状態は、温度、圧力、電場、磁場などのパラメータに依存しています。全ての条件下での構造や状態を明確に決定するのは極めて困難です。この多くのベールに包まれた謎を解き明かすためには、ある量子ビームで一枚のベールを剥がし、その情報を基に重点的に調べるパラメータ領域を定めて別の量子ビームでもう一枚ベールを剥がします。このようなベール剥がしを迅速に繰り返すことで初めて物性を発現する深い謎を明らかにできるのです。探索領域を間違えたり、ベールを剥がす順番や剥がし方が悪かったりすると、本質的な構造情報に辿り着けないことが多々あり、ここが研究者の腕の見せ所です。最近、機械学習などAIを利用した物性発現機構探索法が進歩しており、より効率の良い量子ビーム利用法が開発されつつあります。