【KEKエッセイ #35】“役に立つ研究”と“役に立たない研究”

素粒子「ニュートリノ」を捕らえてノーベル賞を受賞した故・小柴昌俊さんを取材していた新聞記者が、何気なく「ニュートリノ研究は何の役に立つのですか」と質問して、「役に立たないし、儲かりもしないよ」と小柴さんが顔をしかめたという。文学や音楽、美術などの研究者に「何の役に立つのですか」と聞く人はいない。なのになぜ、基礎科学の研究者に対して人は「何の役に立つのですか」と聞くのだろう。それはおそらく「科学は社会の役に立つ」と多くの人が信じているからだろう。でも「役に立つ」という言葉はとてもあいまいだ。私は最近この「役に立つ」という言葉が気になって仕方がない。(広報室 引野 肇)

私の故郷は小田急線沿線の東京都世田谷区梅丘。60年前の梅丘はまるで映画の「ALWAYS三丁目の夕日」のようだった。小学生だった私は、母に頼まれて梅丘商店街でよく買い物をした。肉屋で豚コマとコロッケ、八百屋でニンジンとネギ、豆腐屋で豆腐、梅食(総合食品店)で醤油と砂糖、パン屋でコッペパン。商店街の大人たちとやりとりしながら街中を走り回った。パン屋ではコッペパンにピーナッツバターをたっぷり塗ってもらい、肉屋では肉を経木(紙のように薄い板)に包んでもらった。野菜は古新聞に、醤油は持参の空き瓶に、豆腐も持参した鍋に入れてもらった。不便で貧しかったけれど、環境に優しい地域の温かさに包まれた街だった。

今年10月の天気のいい日曜。ふと思いついて何十年か振りに梅丘商店街を歩いた。懐かしの魚屋、肉屋、八百屋、風呂屋、梅食、蕎麦屋、パン屋、本屋、雑貨屋、ボタン屋‥はとっくのとうになくなっていた。路地裏を走り回る子どもたちもいなかった。60年間の間に、役に立つ科学技術の進歩が梅丘を清潔、便利、近代的な街に変えた。しかし、この60年で私たちは何か大切なものを失ったように感じた。

土木工事などのために開発されたダイナマイトが戦争の武器になり、農業生産のための化学薬剤が枯葉剤という兵器に転用され、原子力が核兵器の開発に応用された。科学技術にはいつも光と影がある。私たちは科学技術が生活を快適、便利、豊かにしてくれると信じてきた。それがいつの間にか、地球の自然を破壊し、野生動物を絶滅に追いやり、大気や森林、海洋を汚染し、ローカルで小規模だった戦争を地球を滅ぼしかねない世界戦争に変えてしまった。

最近、私が一番気になっているのが医学の進歩だ。たとえば最近、分子標的薬や免疫チェックポイント阻害剤など画期的な抗がん剤が次々と開発されて、がんで亡くなる患者が激減している。おかげで日本人の平均寿命が、60年前は男性65歳/女性70だったのがいまや男性81/女性87歳だ。これは医療の進歩の「光」の部分である。問題は「影」の部分も急速に拡大しているのに、国も国民もその問題解決の困難さに頭を抱えて何ら手を打てていないことだ。

その「影」とは日本社会の超高齢化と少子化だ。

日本が超高齢化社会に突入している。60年前は65歳以上の1人の高齢者を11人の現役層(15~64歳)が支えていたが、現在は2人。2065年には1.3人が支えることになるという。これでは若い人たちがあまりにかわいそうだ。いまでも崩壊寸前の保健医療制度や年金制度はいったいどうなってしまうのだろう。

地球表面の面積は有限なので、地球上に暮らせる人間の数にも限りがある。このまま高齢者ばかりどんどん増えていくと、当然、生まれてくる子どもの数は減る。少子化の傾向はすでに顕著で、厚生労働省の人口動態調査によると、60年前には毎年約160万人の赤ちゃんが生まれていたのが、いまや80万台と半減だ。あと半世紀もしたら地上から赤ちゃんの姿が消えてしまう、なんてことは絶対にあってはならない。

アーミッシュと呼ばれる人たち約20万人が、米国オハイオ州などで宗教的な理由から18世紀当時と同じ自給自足の生活を送っている。テレビも自動車も、冷蔵庫も、クーラーも、パソコンもない生活(この状況は所によって少し違うようです)。私にはまるで「科学技術の進歩を止めたら社会はどうなるのか」という壮大な実験をしているようにも見える。アーミッシュの生活ぶりはWEBや映画などで知ることができるが、それを見る限りはとても自然で、健康で、豊かな生活を送っている。

冒頭の小柴さんに質問した新聞記者に対して、みなさんの中に「何てばかな質問をする記者なんだ」と思う人がいるかもしれない。だが、相手から本音を引き出すため敢えて挑発的な質問(愚問)を投げかけるのは記者のテクニックの一つである。小柴さんに怒られた記者の本心は、小柴さんにこう言ってもらいたかったのだと思う。「ニュートリノ研究って面白いじゃないか。君だってこの宇宙がどうできているのか知りたいだろう。君の好奇心を満たすことにも十分役立つと思うよ」

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