【KEKエッセイ #34】草競馬場→ゴルフ場→高エ研

KEK構内に残されている高エネルギー物理学研究所の看板
KEKのつくばキャンパスはもともと使われていないゴルフ場だった。そのころの住所は茨城県筑波郡大穂町大字前野字石塔。筑波研究学園都市の建設が決まり、その土地は1971(昭和46)年に高エネルギー物理学研究所(KEK)になった。その後、日本にはゴルフブームが起こり、つくば周辺では都市化に伴い兼業農家による芝の栽培が盛んになったという。今の住所は、茨城県つくば市大穂1-1。KEKにならなければゴルフ場として復活していたかもしれないこの場所「大穂」を考えてみたい。
なお、これを書くにあたってはKEK広報室の相沢隆司氏に事実確認と情報提供をいただいた。

大きなパラボラアンテナがあった国土地理院は、つくばのランドマークの一つとなっている。国土地理院は国土交通省管轄の地図を作る機関で、つくば市に本院がある。ウェブページでは、現在の地図を詳細に見ることもできるし、過去に撮られた空中写真を閲覧することもできる。いつどの範囲の地図が作られたかを検索することも可能だ。ある土地の過去を知るにあたり、国土地理院の情報は大きな手掛かりになる。
しかし残念ながらウェブページでは高解像度の旧版地図データは見られない。取り寄せもできるが、国土地理院に行けば閲覧窓口の端末で詳細に地図を閲覧したり、その謄本や抄本を交付してもらうことができる。

大穂町(現在のつくば市大穂)付近
左:1960(昭和35)年、右:1972(昭和47)年 (国土地理院2万5千分の1地形図「上郷」抄本の一部を撮影)

上の2枚の写真はKEK発足前後の直近の地形図を現在のKEKにあたる場所に焦点をあてて撮影したものだ。ゴルフ場がいつできたのか分からず、地形図の更新は不定期に行われるため、いまのKEKの場所にゴルフ場の記載がある地図を見つけられたのはラッキーだった。クラブハウスもちゃんと描いてあった。

新しい方の地図に書き足された南北に走る太い道路は学園東大通り線で、筑波研究学園都市の計画により1967年以降に敷設されたものだ。東大通りから「高エネルギー」のギの字に向かって伸びる二重の点線はKEK構内の道路で、いまも職員やユーザーが必ず通る道だ。写真の中央にある建物がクラブハウスで、KEK創設当初は仮庁舎兼宿舎兼食堂として使われていたという。電話は黒電話、土曜は半ドンの時代、つくばエクスプレスはもちろん常磐自動車道もまだ開通していない。この土地で働く職員には新しい研究所を作るという学術的な意味を超えた開拓者のような精神が求められたのではないかと思える。正門近くに本庁舎が建設された後もクラブハウスは宿舎として使われていたそうだ。クラブハウスの近くには民家もない。きっと夜になると外は真っ暗で、降ってきそうなほど星が見えていたことだろう。

ゴルフ場だったのは今のKEKの敷地の一部で、クラブハウスの近くにコースが2つあったそうだ。当時の空中写真を確認すると、地形図で四角に区切られた土地には苗木が整然と並んでいて、植林に使われていたように見える。聞けば、学園東大通りなどに植える街路樹を育てていた土地だったという。あの立派な並木が大穂の出身だったとは。さらに、もっと古い時代には草競馬場があったという話を聞いた。1947(昭和22)年に米軍が撮った空中写真を見ると、林の中にトラックのような二重の楕円形が確認できる。のちに陽子加速器が建設された辺りが草競馬場だったのではないか。

地図に戻って小学校の社会で習った地図記号を思い出してみよう。三角形の底辺が右にずれたような記号は「針葉樹林」、稲を刈った跡のような縦三本の記号は「荒れ地」だ。ゴルフ場時代には空白だったところに、1972年には荒れ地記号が増えている。フェアウェイがキープできず荒れ地と化したと思われる。この後、松林を切り開いて実験施設が建てられていった。老朽化したクラブハウスは撤去され、その付近から北に向かって直線加速器が建設された。現在のKEKにはゴルフ場の名残りはほとんどなく、フェアウェイを囲んでいたと思われる林が残る程度、グリーンだった丘も探せるかどうか。地図上では、建物と道路は増えたものの、それ以外の場所は相変わらず針葉樹林と荒れ地の記号で埋め尽くされている。

現在の地図で荒れ地となっている場所の中に、文化庁が「ふるさと文化財の森」として設定した茅場(かやば)がある。茅とは茅葺(かやぶ)き屋根に使われる草のことで、KEKの茅は、県内の茅葺き屋根保存のために提供されている。今はセイタカアワダチソウが目立ち、茅は少し負けているのかもしれない。しっかり育って今年も例年通り茅刈りが行われることを願いたい。

KEKの茅場(2020/10/16撮影)

「筑波地方の地名の意味(中山満葉 著)」によると、平将門の時代の書物にも、この辺りは「常陸国筑波郡方穂」として登場するそうだ。方穂は「小高くふっくらとしたまるいおか」という意味で、実り多き土地であるようにとの願いを込めて字を当てているのだという。大穂という地名は、明治22(1889)年の合併で「大曽根」と「方穂」から一字ずつとって大穂村としたもので、のち大穂町となった。町の名前が住所になった経緯は分からないが、今の大穂には研究成果が実り多くあるようにという願いが込められていると思えてならない。

(参考)創設十周年記念冊子「十年の歩み」

https://www2.kek.jp/ja/library/10years/10YEARS_1.pdf

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