今回は、『宇宙と物質の起源 「見えない世界」を理解する』(講談社ブルーバックス)の点字本を手がけた素粒子原子核研究所シニアフェローの藤本順平(ふじもと・じゅんぺい)さんです。
初めに、点字本プロジェクトが始まった経緯を教えてください。
元々、山内正則前KEK機構長と筑波技術大学(筑波技大)の石原保志学長が懇意にしていた関係で、素粒子原子核研究所(素核研)の齊藤直人所長に「共同で何かできないか」との相談があったそうです。2年ほど前に齊藤所長から「筑波技大の先生方と共同制作する点字本の元原稿となる、一般向け書籍の執筆に協力してほしい」との依頼がありました。各章のテーマを専門に研究する素核研の研究者10名で分担し、まずはブルーバックス本を執筆しました。
そもそも筑波技大の前身の筑波技術短期大学は、KEKの前身である高エネルギー物理学研究所の西川哲治・第2代所長などの尽力により設立されました。共通研究系研究主幹だった三浦功教授が初代学長となるなど、KEKとは前から関係が深かったのです。
以前、私も朗読ボランティアの方から電話で「『GeV(エネルギーの単位)』はどう読んだらいいのですか?」という問い合わせを受けたことがあります。つい最近も「自分は視覚障害者だが、点字本を利用したい」という電話がありました。需要があるということでしょうか?
そう思います。点字本自体はもちろん結構作られているのですが、物理分野に関してはほとんど作られていないと聞いています。『宇宙と物質の起源』は、9月時点で計2万2千部が発行されました。素核研の執筆者に入る印税は、触図集(触って読むための紙面を盛り上げた図)の印刷代に充てています。それと共にブルーバックス本と触図集のセットを全国の当事者の方々が関係する施設や図書館への寄贈もしました。
世界的にも珍しい試みということで、欧州合同原子核研究機構(CERN)が定期刊行している雑誌『セルン・クーリエ(CERN Courier)』の9・10月号に紹介記事が掲載されました。
特に苦心されたのはどんな部分でしょうか?
執筆の当初から、記述の中に目が見える人特有の表現がないかどうかに気を使いつつ、研究者が章を書き上げるごとに、筑波技大側にお願いして、スタッフに点訳をしていただきました。全章の執筆が終わった段階で、外部の当事者の方々にフィードバックのための試読をお願いしました。
難しかったのは、図表現でした。三次元を二次元でどう表現するかという点です。CERNの地下深くに敷設されているLHC(大型ハドロン衝突型加速器)の構造を示す俯瞰(ふかん)図やヒッグス粒子の性質をワインボトルの底のような形で示す説明の図などは、視覚障害者にはイメージしにくいものです。
昨年の夏は毎週筑波技大に通い、図表現が適切かを教えていただきました。
想像しただけでも大変さが伝わってきます。では、これまでのご自分の研究内容について、お話しいただけませんか?
私は名古屋大学の高エネルギー物理学研究室(N研)出身です。そこで実験データを数字化することが大事であると学びました。物理法則は数式で与えられますが、実験からは数字が得られるので、数式から数字を計算することで初めて数式が正しいかどうかが分かります。KEKでは当時始まったばかりのTRISTAN加速器を用いるTOPAZ実験グループに所属しました。
TRISTAN実験の終了後は、フランスのアヌシー素粒子研究所や、モスクワ大学の原子核研究所、また、ベルリンにあって、現在はドイツ電子シンクロトロン研究所(DESY)と統合されたツォイテン高エネルギー物理学研究所などの研究者と共同研究を行い、LHC加速器の前身のLEP(大型電子・陽電子衝突型加速器加速器)実験やLHC実験における、標準理論や超対称性理論に基づいた素粒子反応の確率の高精度計算研究に従事しました。
KEKのウェブサイトに掲載している『カソクキッズ』の登場人物「Dr. フジモト」のモデルでもあります。どのようなきっかけで広報室の活動に関わることになったのでしょうか?
当時の鈴木厚人機構長から、KEKの認知度をより高めるために広報室の活動に協力してほしいとの要請に応えたのが始まりです。
『カソクキッズ』の作者のうるの拓也さんは、私たち研究者による物理の話題に関する解説議論の様子を見て、ギャグを交えるなど、低年齢層向けマンガとしてのストーリー展開を考え、作画くださいました。KEKキャラバン(KEKの出前授業プログラム)の派遣先で、自分がDr. フジモトだとわかって、生徒さんたちに「読んでいます。ファンです」と喜んでもらえた時は嬉しく思いました。
KEKエッセイで宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のことを書いていらっしゃいます。それについても聞かせてください。
15年くらい前に、子供の頃から慣れ親しんだものとは違うバージョンがあると知りました。このお話は、宮沢賢治が亡くなった後に見つかった原稿なので、いろいろな構成のバージョンがあります。初期のバージョンに出てくる「セロ(チェロ)の声の博士」は、「あらゆる人のいちばんの幸福を実現するために、ほんとうの考えと、うその考えを分ける実験をする」ことを主人公のジョバンニに説きます。
それを読んだ時に、それまで長年携わってきた実験の重要な意味がわかり、「よかった、救われた」と思いました。両親から「人の役に立てるような人間になりなさい」と言われて育ちましたので…。この点字本の完成では「今度は直截的に人の役に立てたかな」、と思いました。
仕事に没頭するあまり食事するのを忘れることが多々あると伺ったことがあります。もし研究以外に何か趣味をお持ちでしたら、教えてください。
バッハの音楽が物理学と通じるものがあって、好きですね。
バッハはさまざまな様式の曲を作りしました。物理学では対称性という考えで自然法則を解明します。バッハは表現者であって解明者ではありませんが、フレーズの繰り返しとか、逆さにするとか、伸ばすとか、並行移動するとかなどさまざまな対称性を取り入れつつ、美しい曲を作りました。バッハの音楽には物理学に似た「構造」があります。そこが興味深いです。
更に、演奏を始めてしまうと調律ができないピアノという楽器に向け、移調した時に調律しなくても、それなりに人の耳に心地よい音の組み合わせで構成した曲を残し、それが西洋音楽のある意味での基礎の一つとなりました。
バッハはバロック音楽の巨匠として有名ですが、作曲様式については初めて知りました。私もチェロの演奏による「G線上のアリア」を聴きながら、『銀河鉄道の夜』を読んでみたくなりました。ありがとうございました。
(聞き手:広報室 海老澤 直美、写真:素粒子原子核研究所 菊池 まこ)