【KEKエッセイ #47】増築を重ねた温泉旅館に隠された別館~ミューオンが切り拓く新しい物理学

標準模型は古い大きな温泉宿のようなもの(絵:三原智)
標準模型は古い大きな温泉宿のようなもの(絵:三原智)


素粒子「ミューオン」の「磁気モーメント」を調べる「ミューオンg-2実験」の測定結果が4月8日、米国フェルミ国立加速器研究所から報告されました。素粒子を一つの磁石に見立てた時、その磁石の強さを磁気モーメントと言います。その測定結果が世界中で大きな話題となっているのは、ほんの50万分の1ほどの違いなのですが、その測定結果が最も精密な理論計算結果と比べてごくわずか違っていたからです。身長に例えれば、測定してみたら髪の毛の20分の1くらい背が高かった、という程度のことです。なぜ50万分の1の誤差で物理学者たちが大騒ぎをするのか、思いっきり分かりやすく説明したいと思います。(素粒子原子核研究所 三原智)

 

素粒子がこの世界の究極の構成要素という考えが生まれたのはおよそ100年近く前です。自然界で起こる物理現象を素粒子の言葉で記述する方法は、その間少しずつ書き直され改訂、増補を繰り返してきました。そして出来上がったのが「素粒子の標準模型」です。この標準模型は現在知られている素粒子の反応をほとんどすべて正確に記述できます。そう言われるとみなさんは、まるで左右対称、荘厳、整然としたベルサイユ宮殿のようなイメージを思い浮かべるかもしれません。しかしその実態は、入り組んだ部屋の奥に長い廊下があったり、さらに崖を下ると別の建物につながっていたりと、まるで増築に増築を重ねた古い大きな温泉宿のよう、とも言われる代物なのです(注1)。

 

ミューオンは、負の電荷を持った電子そっくりな素粒子です。ただ電子より200倍も重く、100万分の2.2秒で壊れてしまう、太って病弱な電子のお兄さんといった感じです。このお兄さんは、他の素粒子にはない得意技があります。それは、どんな小さな部屋にも忍び込んで、そこの情報を盗んで来ることができるのです。ミューオンはこの古い温泉宿の隅々の部屋に入り込んで、その部屋の伝票(情報)を盗み出すことができる温泉街の放蕩息子のようなものと言っていいでしょう。ミューオンの磁気モーメントの大きさを標準模型に基づいて正確に計算しようとすると、すべての建屋のすべての部屋の伝票を足し合わせることになります。この計算値が、実測値とぴったり合っていたら、標準模型は完全に正しかったということであり、少し違っていたら、標準模型が見落としている隠れた部屋や建屋がまだどこかにあるということです。今回のフェルミ研究所の計測結果は、隠れた建屋がまだありそうだということで大騒ぎになっているのです。

 

標準模型にはいくつかの建屋が存在します。まずは「量子電磁力学」の母屋です。ここは良く整頓されている建屋で、玄関先にいくつもの部屋が連なっています。最初の大広間の伝票は「116140973」です。これはシュウィンガー項と呼ばれる一番大きな数字です。その先にはいくつもの小部屋があり、思いっきり手を伸ばして伝票をかき集めると母屋の伝票総額はシュウィンガー項を含めて「116584 718.931」になります(計算誤差は0.104)。次に弱い相互作用の別館です。この別館も理路整然と整っているので伝票を全て集めることができます。その伝票総額は「153.6」となります(同1.0)。手強いのが強い相互作用の建屋です。この建屋は玄関の脇の廊下を進んだ先にあります。建屋の各部屋には多くの骨董品やお宝が並べられ、中には手の届かないところに放置された伝票もあります。このため、ここではすべての伝票を集めることが難しいので、いろんな角度から写真を撮影して注文内容を推測するという荒業を使います(実際には、他の実験の測定値を組み合わせて推測します)。こうやって推測した強い相互作用建屋の伝票総額は「6937」です。この場合は誤差が大きくて最後の2桁に誤差(43)が含まれます。しかし最近、途中までは有限の条件で近似計算をして最後に極限をとって数値を求めるという方法「格子計算」も研究されています。

 

このようにすべての建屋・部屋を駆けずり回って集めた伝票を足し合わせた「お勘定」(つまり標準理論に基づく計算結果)が「116591810」で、帳場の方で管理していた出庫伝票の総計(つまり今回のフェルミ研究所の実験結果)が「116592061」で、両方を比べると最後のところだけが少し違っていた、というわけです。

ミューオン磁石の大きさを表す比例係数の実験測定値(平均値)と理論計算値 (比例係数であるg因子から2を引いて1000億倍した数字)

ミューオン磁石の大きさを表す比例係数の実験測定値(平均値)と理論計算値 (比例係数であるg因子から2を引いて1000億倍した数字)

測定値と計算値に違いがある理由として3つの可能性があります。1つは、実験のどこかで間違いがあった可能性。これについては、別の手法で実験、検証して、間違いの可能性を0に近づけることが必要です。KEKはフェルミ研究所とは別の手法でg-2実験を進めており、このためKEKがこれから出すであろう実験結果に世界中が熱い視線を注いでいるのです。2つ目はどこかに集め忘れた伝票がある可能性です。特に、強い相互作用の建屋の伝票については入念な検証が行われています。3つ目は、もしかするとこの古い温泉宿の外側にこれまで全く知られていない温泉街があり、ミューオンがそこに出かけて出前を注文していたという可能性です。

 

3つ目の可能性については、もしかしたらそうかもしれないという傍証がいくつかあります。例えばニュートリノ振動実験でニュートリノの質量がゼロではないことが最近わかってきましたが、これは温泉宿の近くに東屋があるのが見えた証拠と言っていいのかもしれません。今のところ、温泉宿から東屋につながる廊下も裏道も見つかっていませんが、かなり近くまで接近しつつあります。もう一つは宇宙の暗黒物質です。温泉宿から離れたところに湯けむりが上がっているようなものです。同じ源泉なのか、もしかしたら別系統の源泉なのか、今のところ湯けむりの観測以外何の手がかりもありません。

 

私たちには、自然界が作り出したものは対称性に基づいて形成されてきたという信念があります。もしそうであるのなら、この宇宙は山の中に孤立した増築に増築を重ねた温泉宿ではなく、この温泉宿を内包するような整然としたベルサイユ宮殿であるはずです。つまり3つ目の可能性が素粒子の世界の真の姿で、フェルミ国立研究所の実験はその事を示唆していると考えるのです。

 

この古い温泉宿の外に何があるのか調べるには、一度、温泉宿の上空から眺めてみるのが一番です。これはまさに超高エネルギーの加速器を使って素粒子の現象を調べようとする試みです。しかし、今世界にある大型の高エネルギー加速器では、手がかりはまだつかめないようです。もう一つ、素粒子を大量に生成してその振る舞いを精密に調べる方法があります。そうです、g-2測定などのミューオンを使った実験です。ミューオンは質量が比較的軽く寿命が長い(100万分の2.2秒というのは普通に考えればとてつもなく短い時間ですが、物理学者にとってはとても長い時間です)ので加速器を使って大量に作り、実験ができるのです。それを温泉宿の中に放てば、温泉宿を抜け出して外の情報を持って帰ってくれるかもしれないのです。

 

J-PARCではここに述べたg-2実験のほかに、ミューオンが100兆回に1回よりも小さな頻度で起こすかもしれない特殊な反応を探す「COMET実験」の準備も進めています。この反応を温泉宿の中で見つけることができれば、ニュートリノ振動とは別の建屋があることの証明となるのです。そして、それはもしかして新たな温泉宿への入り口なのかもしれません。COMET実験については、また別の機会にお話しましょう。

 

 

(注1)参考文献『強い力と弱い力』大栗博司(幻冬舎新書)

大栗先生の著書の中では標準模型全体の入り組んだ構造を「増改築を重ねた温泉旅館」と表現されています。今回のエッセイではこのアイデアを拝借し素粒子に働く力の違いの説明に使わせていただいております。

 

関連リンク

J-PARC muon g-2/EDM 実験
J-PARC COMET実験
KEKエッセイ#25 ミューオンはどっち向きに回ってるの?〜素粒子の歳差運動〜
徹底解説 ミューオンg−2研究の最新情報

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