【KEKエッセイ #41】現代宇宙論と素粒子論で哲学者カントに挑戦

KEK2号館の桜(2021/3/24)撮影:荒岡修
KEK2号館の桜(2021/3/24)撮影:荒岡修


イマヌエル・カントは18世紀後半に活躍したドイツ(プロイセン)の哲学者です。それまでの哲学が自然の摂理の究極的な解明を求める傾向だったのに対して、カントは真っ向から否定しました。これを「純粋理性批判」といいます。ここの「理性」という言葉は推論する能力を表します。そして、哲学とは人がどう生きるかを追求する学問であるとする考え方をより一層深めていきました。わたしは現代的な宇宙論・素粒子論の観点から、純粋理性批判に挑戦してみようと思います。(理論センター 郡 和範)

 

カントは純粋理性批判で、「なぜ人は答えが出ない命題を問い続けるのか」という問い対して「答えは出ない」と結論づけています。「それらは人が推論するための、あらゆる能力を超えている問いだからである」というのが理由です。これを具体的に示すため、二律背反(アンチノミー)という肯定も否定もできない二元論の例を4つ挙げています。分かりやすく言うと①宇宙にはじまりがあるか②物質の究極の構成要素は存在するか③自由な選択に原因があるか④この世に必然的な存在はあるか−−といった感じでしょうか。理論物理学者の私としては、論破してやろうという衝動にかられる、興味ある問いです。これらの問いに対して、私は現代的な宇宙論と素粒子論を武器に挑戦してみました。

 

まずは、①の「宇宙にはじまりがあるか」についてです。カントは「宇宙の歴史が有限か無限か」との命題に対して「答えはない」と結論しています。ここで、20世紀前半に提案された「ビッグバン宇宙モデル」の観点で考えてみます。宇宙は熱い火の玉が膨張して現在の大きい宇宙になったとされる説です。宇宙の膨張のスピードなどの観測の情報と、宇宙の構成要素(放射、物質、ダークマター、ダークエネルギー)のエネルギー状態の存在量の観測の情報を使って、一般相対論を基にしたアインシュタイン方程式の解の一つであるフリードマン解を用いて計算します。これらの現代的な観測値から、宇宙年齢は約138億年と推定されます。つまりビッグバン宇宙モデルでは宇宙の歴史は有限になります。

 

しかし火の玉宇宙の前には、1981年に佐藤勝彦さんやグースが提唱した、もっと急激な膨張期である「インフレーション期」がありました。現代宇宙論では、火の玉宇宙の元になるエネルギーはインフレーションを引き起こす素粒子であるインフラトン場が崩壊するなどして作るというものでした。ビッグバン宇宙で生じる極めて重要な問題を解くため、この初期宇宙のインフレーション期の存在は広く信じられています。しかし、インフレーションがどのくらい長く続くのかについて、理論的にも観測的にも全く分かっていません。

 

さらに、まだ仮説段階ですが、1982年ごろビレンキン、ハートル、ホーキングらが提唱したように、インフレーションより前に量子力学の効果で宇宙は無から相転移により誕生し、相転移中は虚数の時間(虚時間)が流れる時期があったとされています。そしてインフレーション期に繋がるだろうというものです。また、その前は宇宙自体が、量子力学が支配する世界で、時間すら流れない時期があったとも考えられています。

 

2000年代には、宇宙の誕生の時刻ゼロの前に収縮する時期があったとするエクピロティック宇宙とかサイクリック宇宙などと呼ばれる新しい宇宙モデルも提案されています。この場合、138億年前のもっと前にも時間が流れていたことになります。

 

このように、今の宇宙が誕生していても、時間が流れない、もしくは流れても虚時間が流れたとか、時刻ゼロの前にも収縮宇宙という別の宇宙が存在していて別の時間が流れていたなど、宇宙の時間発展についての概念が物理学の進展とともに変わってくる可能性があります。宇宙の年齢が有限か無限かの議論自体が無意味になってしまいそうです。

 

現代宇宙論を使ってカントの結論を覆そうとしましたが、不可能なようです。ある仮定の下では答えは出ます。しかし、インフレーション、相転移での宇宙誕生、宇宙初期の量子状態、宇宙誕生前の収縮宇宙などという、それまでの知識と比べると人知を超えた変更が物理学に起こりえる場合、「宇宙の年齢について答えは出ない」という解釈になるのです。18世紀末の時点で、将来の宇宙の歴史の理解について、ある種の進展の可能性をも想定して、それでも将来に渡っても答えが出ないと結論づけたなんて、「カント、恐るべし」です。

 

②の「物質の究極の構成要素は存在するか」についても同様に、カントの結論に反論できないことがわかります。これ以上分割できない物質の最小の単位は、現代の物理学の知見からクォーク、電子などのレプトン、光子などのゲージ粒子、ヒッグス粒子などの約17種類の基本的な素粒子であることが知られています。クォークの集まりが陽子と中性子で、それらの集まりが原子核です。原子核に電子が捉えられると原子になり、原子が集まったものが分子です。たくさんの原子と分子が集まって、我々が目にする物質を構成します。クォークなどの素粒子の存在は、実験により最小単位であると検証されていますが、その結論は「さしあたり現在はそうなっている」という結論に過ぎないかもしれません。

 

素粒子ですら振動する弦のモードの違いでに分割できるとする「超弦理論」が提唱されています。超弦理論の導入には量子力学と一般相対性理論の相性の悪さを解消するという強いモチベーションがあります。しかし、実験的には未検証です。素粒子物理学の進展で理論の枠組みが変われば、最小単位の概念が変わるのです。こうした新しい理論は言わば人知を越えた知見で、新理論が生まれる可能性がある問いに対して答えが出ないというカントの回答は覆りません。

 

③の「自由な選択に原因があるか」に関して、カントは「自由」とは「因果律」に縛られない行動をとることだと定義しています。ここで、カントの言う「因果律」とは、通常の物理学でいう厳密な意味での因果律とは異なりますが、このエッセイではカントの意味で「因果律」を用いることにします。例えば食欲などの欲望に従って行動することは、カントの定義する「自由」ではありません。実はミクロの世界の物理法則である量子力学では、すべてのことが確率的に決まります。通常の巨視的な力学での「因果的に」運動がすべて支配されている私たちの世界とは、全く異なるのです。例えば、シュレディンガーの猫の思考実験に見られるように、崩壊率が量子力学に従って確率的に決められる放射性物質の崩壊で、猫に毒ガスが放出される場合です。この場合、いつガスが放出されるかは「因果律」に従うのではなくて、カントの言う「自由」に相当することになるでしょう。まだ仮説段階で検証されていないことですが、我々の脳の思考が量子力学に従った確率で決まる場合があるのなら、行動するための選択に原因がない場合があるということを意味するかもしれません。この問題も結論がでていません。

 

④の「この世に必然的な存在はあるか」でのカントの言う「必然的な存在」とは、宗教における神のような存在のことです。もちろん、それぞれの宗教には敬虔な信者さんがたくさんいらっしゃって、神の存在を疑うこと自体、信者さんにとっては愚問です。以下で問題にするポイントは「必然的な」という部分です。そこで、物理学者の考え方の一例を紹介します。宇宙誕生時の初期条件の選択などは量子力学に従う確率で決まっているとするなら、正に宇宙の命運をつかさどる神のような存在がサイコロを振っているとも解釈できて、それは神のような存在のお仕事の一つに合致するのではないかとも思います。近年の超弦理論の研究者たちが提唱する「ランドスケープ」という考え方に立脚すると、宇宙の初期条件の選び方には約10の500乗個以上という莫大な数の可能性があります。その中から我々の宇宙になるための1つを選んだのが神のような存在と言い換えることになるかもしれません。その場合、その神のような存在は必然的と言えるかどうかが問われます。量子力学を疑っていたアインシュタインは、「神はサイコロを振らない」と言ったそうです。つまり、上述の量子力学のサイコロを振る神は認めませんでした。彼の解釈では、自然法則こそ神であるとして神のような存在は認めつつ、人格を持つ神は否定していました。現代において量子力学が信じられ、テクノロジーの中枢として応用されていることを考えると、彼の量子力学への批判はたいへん皮肉なことです。確かに、物理学者は、出来る限り、偶然ではなく物理学上の必然的な理由により、それぞれの現象が起こると最後まで考え続ける職業です。宇宙の初期条件を決めるという物理学の基礎的な問題が、偶然の産物とは言いたくありません。しかし、現在の理解では、ランドスケープにおいて、この宇宙になるための初期条件が必然的に選ばれたと信ずるに足る証明はまだありません。もちろん人格もありません。現代物理学を持ってしても、これほど根源的な問題について、偶然か必然かの答えは出ていないのです。

 

これまで純粋理性批判のための二律背反の4例で、どうにか論破できないか試みましたが、カントの論理を覆すまでには至りませんでした。最終的にカントが到達した理想の生き方とは、1)宇宙に想いをめぐらすこと、2)道徳に従って「自由」に暮らすことであり、この2つが同様に大事なことであると記しています。実は、カントの言う「自由」に暮らすことは我々が想像する以上に難しいのかもしれません。ほとんど「因果律」に従って行動せしめられている我々には、むしろ我々では判断できないほどたくさんの「自由」ではない行動をとっているに違いないと推測されるからです。カントは生涯独身で79歳まで生き、亡くなったのは1804年のことでした。もしタイムマシンが発明されたら、カントを現代に連れてきてほしいと思います。そして、現代を見て当時の純粋理性批判の考えから変更する点があるか聞いてみたいです。

 

それでも「依然として私が18世紀に著したことと無矛盾だ」と言うかもしれませんね。

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