
人事・職員課に所属する事務系職員の藤 平四郎(とう・へいしろう)さんは、茨城県東海村のJ-PARCから岐阜県神岡町にある東京大学宇宙線研究所の観測装置スーパーカミオカンデまでの道のりを歩いて8日間で踏破した猛者です。その体験を中心に話を聞きました。
最初に、個性的なお名前について聞かせてください。「平四郎」というのはどなたの命名ですか?
両親は、父が大学時代にアルバイト先で母と知り合って結婚したのですが、名前はそこの社長がつけてくれました。平成四年生まれで「平四郎」です。名字もあまりない読み方のためフルネームを正しく読んでもらえることはまれで、大体は「ふじひら・しろう」とか、「ふじ・へいしろう」だと思われます。
他の兄弟も生まれた年に関係する名前なのでしょうか?
いいえ、私だけです。妹2人に続いて平成十年に弟が生まれたのですが、「平十郎」ではないです。納得できません(苦笑)。子どもの頃は自分の名前が嫌で、中学の時に祖父の葬儀でその名づけ親と対面した時は、複雑な胸中でしたが、今では良い名前をいただいたと感謝しています。
お父さんはアルバイト先の社長とその後も長く交流があったということですね。いったん築いた人との関係を大切にするタイプだと思います。どんな家庭でしたか?
父はあるメーカーの営業職で、バリバリ働いています。子どもの頃はしつけが厳しく、門限も早くて窮屈に感じました。家ではゲーム禁止で、気兼ねなく遊べるようになったのは大学生になってからです。でも、卒業後に自分も同じ製造業の仕事についたことを考えると、父の影響は受けていると思います。
就職したのは富山県のメーカーでした。図面をもらってどこでどうやって作るか考えながら、様々な部署や協力会社に試作品の工程管理をしながら製作してもらい、量産化までつなげる業務を行っていました。技術者から渡された図面を現場に持って行って、加工できないか一緒にあれこれ検討したりしました。現場の「こんな図面や納期でできるわけないだろう!」などの怒号が飛び交う中で4年間を過ごしたので、その後中途採用でKEKに入った時は職場があまりにも静かなことに驚きました。
九州出身なのに富山県に就職したのは、どういう理由でしょう?
山からあまり離れたくなかったのです。高校時代はいわゆる帰宅部で、部活動やスポーツに特に興味があったわけではありません。同級生と軽いノリで決めた大学がたまたま信州で、入学後に登山を始めました。
そこからKEKに転職したのは何かきっかけがあったのですか?
私は大学で法律を専攻しましたが、実は高校2年生頃までは理系で、将来はエンジニアになると思っていましたが、文系科目の成績の方がよかったために転向したのです。
元々そういう傾向があったところに住んでいた大学の学生寮に理学部生が多く、ちょうどニュートリノ振動の発見等の、素粒子物理が熱い時期だったこともあり、南部陽一郎博士の理論がいかにすごいかとか宇宙の加速膨張、ヒッグス粒子の発見、SUSYなどの物理について延々と語るまわりの仲間たちにすっかり感化されました。そのうちの1人が現在J-PARCのハドロングループに在籍しています。彼がKEKの求人が出たことを教えてくれて、転職を決心しました。
公務員になるには大学時代に準備するのが普通ですが、私の場合はKEKを受けるまで公務員になるつもりがなかったので、社会人になってからの公務員試験の勉強は大変でした。あの時は高校受験の時よりも大学受験の時よりも必死で勉強し、これまでで一番勉強したと思います。
振り返ってみると、今までの自分の人生に大きな影響を与えたのは父と信州大学に決めてくれた高校の同級生、それにKEKへの転職を勧めてくれたハドロングループの友人です。この3人がいなかったら今の私は存在していないと思います。
茨城県にはあまり山がないですが、来てみて物足りなくはなかったですか?
大学時代は「北アルプス以外は山ではない」と思っていました。が、以前から歴史に興味があり大学時代から熊野古道や中仙道・東海道の一部を歩いたことがありました。また、メーカーを退職してからKEKに入るまでに3か月あったので四国のお遍路巡りもしました。そうした経験から平地を歩くのは寝袋もテントも不要で、食べ物や飲み物もコンビニや自動販売機で補給できるので身軽だなと感じていました。お遍路では標準では45日かかると言われていますが、自分は26日で踏破できたため、KEKのコミュニケーションプラザにあるT2Kの模型を見た時も問題なく歩いて行けるな、となんとなく思っていました。
つくばに赴任した時は歴史的にも重要な場所であった小田城跡(合併以前の旧筑波町に残されている城跡。南北朝時代に南朝方の拠点となり、北畠親房が「神皇正統記」を執筆したことで知られる)の近くに住みました。
KEKで働くようになってからは、その場所から程近い宝篋山(ほうきょうさん)から桜川市の岩瀬駅まで山伝いに歩いたのを皮切りに、次につくばのKEKから東海村のJ-PARCまで歩きました。午前2時につくばを出発してJ-PARCに着いたのが午後5時。この時は一日で88,000歩歩きました。J-PARCのハドロンホールから東海駅までまた歩いて帰るのが本当に嫌で、先程話した友人に連絡して迎えに来てもらいました。向こうは呆れていましたけど(笑)。
宗教的な建築物も好きで、登山のついでにその地方の寺社仏閣やその地方の博物館に足を運ぶことがあります。仏教美術を芸術として眺めるのではなく、その場所にいた当時の人々に思いを馳せるというか。時代が時代だったら、山伏になって諸国を行脚していたかもしれないです。
その後いよいよ東海村~岐阜県神岡町までの”人間ニュートリノ“活動を敢行するわけですね。辿ったルートを教えてもらえますか?
J-PARCから発射されるニュートリノは地中を直進してスーパーカミオカンデまでの295kmを進みますが、地上ではそうはいかないので、私が実際に歩いた距離は水平距離で376kmです。
1日目はつくばで仕事が終わった後にJ-PARCへの業務連絡バスに乗り、LINAC(リニアック)前で降りてRCS(3Gev陽子シンクロトロン)とMR(主リングシンクロトロン)をそれぞれ一周し、J-PARCのある原子力科学研究所(日本原子力研究開発機構)を出てひたちなか市のホテルに泊まりました。(15km)
2日目はそこからひたすら国道50号線を西に向かって歩きました。結城市に泊まる前、途中の筑西市でKEKの職員に目撃されたそうです。「土砂降りの雨の中、苦しそうに歩いている藤君を見かけたけど、車に乗せてあげた方がよかったかも」とその職員が言っていたと後で聞きました。(63km)
3日目は群馬県伊勢崎市(53km)まで、4日目は碓氷峠の手前の松井田(53km)まで、このあたりから徐々に勾配がついて山道のようになってきました。5日目は長野県上田市(61km)まで、6日目は安曇野(47km)まで、7日目は北アルプスの蝶ヶ岳(標高2,677m)を超えて上高地に入り中尾峠を通って岐阜県に入り栃尾温泉(48km)まで、8日目に神岡町の東大宇宙線研究所の観測施設スーパーカミオカンデの入口である跡津(あとつ)坑(36km)に辿り着きました。
道中の食事はコンビニで買って歩きながら食べることが多かったです。また、茨城名産の干し芋はカロリーが高くて腹持ちはいいし、持ち運びも容易でこういう時にうってつけですね。ホテルは事前予約せずに当日または前日の夜に探しました。
てっきりJ-PARCに転勤してからだと思ったのですが、実行したのはつくば勤務の時だったのですね。復路はどのように帰って来たのですか?
跡津坑まで歩いた後に最寄りの東京大学の研究所前のバス停からバスに乗るつもりだったのですが、コロナ禍のために減便になっていて、やむなく猪谷駅(富山県富山市)まで歩きました。プラス10kmです(苦笑)。それから長野の松本の友人のところまで電車で行って、家に泊めてもらいました。翌日、その友人が御嶽山に登りたいというので登山につき合い、帰りは北陸新幹線で戻って来ました。
驚異的な行程です。なぜこんな過酷なことをやろうと考えたのでしょうか?
歩き疲れてクタクタになり、夜は「もうやめて明日は帰ろう」と思って床につくのに、翌朝になると不思議なことに、やらなければならないからまた頑張ろうという気持ちになっているのです。歩くことによって自分の頭の中にある地図の白い部分が埋まっていくことに快感を覚えます。達成感と言われればそうなのかもしれません。
つくばに来て信州が遠くなったため、他の地方の山にも登るようになりました。深田久弥の「日本百名山」に日本山岳会が選定した「日本三百名山」を制覇するのが今の目標です。これまでに262座登ったので、残すところあと38座になりました。週末は山に登れれば必ずどこかに出かけています。
登った中で一番のお気に入りはどこですか?
山形県と秋田県にまたがる鳥海山です。8回くらい登りました。その魅力は山体が大きく、東北の比較的どこからでも見えて目立つこと。火口跡には池があり、残雪も多く、山頂は岩場になっています。様々な楽しみ方ができるオールマイティーな山です。
仕事では外部資金の業務を3年、J-PARCでの契約関係の業務を3年3か月、そしてこの7月からは共済福祉の業務を経験しているのですね。今後行ってみたい部署はありますか?
研究者は制約を受けずに思う存分研究をしたいに違いないと思うのですが、事務系の職員は規程や予算の制約などを持ち出して、言うなれば研究のブレーキをかけてしまう部分があります。私自身には特に行きたい部署というのはないですが、研究者がやりたい研究をできるだけ支援できるよう、人間関係を大事にしてじっくり仕事がしたいです。
ひょうひょうとしていて、どこからエネルギーが出てくるのかと思いましたが、お父さん譲りの熱い血が体内を流れているのですね。茨城県出身者としては郷土の歴史に詳しく、食べ物も評価してもらえたのは嬉しい限りです。ありがとうございました。
(聞き手:広報室 海老澤 直美)