小柴昌俊先生ご逝去の報に寄せて

KEKB世界最高積分ルミノシティ達成記念パ-ティ-にて(2002.10.26 中央に小柴先生)

ノーベル物理学賞受賞者の小柴昌俊東京大学特別栄誉教授が11月12日、死去されました。小柴先生から物理学の薫陶を受けるなど、抱えきれぬほどの恩義を感じている人たちがKEKにたくさんいます。小柴先生のご遺族によるお別れの会が開かれないと伝えられていることもあり、KEKの現・元研究者から追悼のメッセージがKEKに寄せられていますので、ここに紹介させていただきます。小柴先生の心からのご冥福をお祈りいたします。

(敬称略、掲載はあいうえお順)

小柴研最後の学生の私が研究室に通うようになったのはカミオカンデ実験開始の直後でした。計算機室に籠ってひたすらイベントのスキャンをして陽子崩壊を探す先生の姿が記憶に残っています。その後、カミオカンデは太陽ニュートリノ観測に向けて改造。太陽ニュートリノは天文学の分野、エネルギー的には原子核物理の領域で高エネルギー物理学とは全く別分野。先生の視野の広さと慧眼、自分たちの実験装置の可能性を徹底的に追及する姿勢には感服させられました。ご冥福をお祈りします。

(大山雄一・素粒子原子核研究所准教授)

1980年代、先生がもともと始められた「夏休み実験」でミュー粒子に出会いました。90年代、ニューヨークでお会いして、そのお人柄に触れました。2010年代、先生のお名前を冠した賞をいただきました。研究分野は違いますが、小柴先生の豪快さ、面倒見の良さ、人間的な魅力に憧れていました。ご冥福をお祈りいたします。

(小嶋健児・元物質構造科学研究所准教授、現在はTRIUMF Senior Research Scientist/物構研客員教授)

小柴先生にはT2K実験の立ち上げからたいへんお世話になりました。2011年、T2Kで電子ニュートリノ出現の最初の兆候が出た時は、プレスリリースを出す前に小柴先生にご報告にあがりました。その時は大変喜んでいただいたとともに温かい激励をいただきました。今後も先生が礎を築かれた日本のニュートリノ研究を更に発展させるべく頑張っていきたいと思います。ご冥福をお祈りします。

(小林隆・素核研副所長)

恩師である小柴先生は独特の熱い人脈で研究の場を広げられました。三井金属の社長の信頼を得てカミオカンデを、一方ブドケル博士との交流から加速器実験を始められ、その後ロールマン博士を通じてDESYでの一連の実験を推進され、それはヒッグス粒子を発見したCERNでの国際共同実験へと発展し、私も参加できました。東大小柴研創成期の学生だった私にも、数年に一度お会いする度に「お前は砂ひっかけて(小柴組から)出て行った」と気にかけてくださいました。ありがとうございました。心からご冥福を祈っております。

(近藤敬比古・名誉教授)

私が東大の大学院生だったころ、小柴先生から私の最初の研究テーマとして原子核乾板で宇宙線のエネルギースペクトラムを解析する仕事を任されました。私は「その研究は学問的に面白くない」と言って断り、田無の原子核研究所に移って別の研究テーマを選択しました。結局、その別のテーマで博士論文を書いたのですが、あの時、先生がそれを許してくださったことが私を次の高みにジャンプする手がかりとなったのだと、小柴先生には感謝しています。

(高﨑史彦・名誉教授)

小柴昌俊先生の突然の訃報に、悲しさは言葉にならず、感謝とともにご冥福をお祈りしています。大学院以来、超半世紀に及ぶ御恩の大きさは計り知れず、小柴先生とのご縁がなければ、全く別の人生を歩んでいただろうと思う。
先生はロチェスター大学で学位を取られ、その後米国で大きな国際チームを率いて活躍された。帰国され、1963年に東大理学部に移って停年までに約40人の弟子を育てられた。核研が旧KEKと統合して現在のKEKに発展したことを考えると、宇宙線研、KEKの皆にとって、小柴先生は大先輩と言える。50年以上昔、我が国で初めて電子・陽電子衝突実験を目指したのは小柴先生である。ノヴォシビルスクのブドケル所長と意気投合した先生は、建設中のVEPP3での国際協同研究を計画された。続いて計画されたDESY-DORISの協同研究で、1974年に当時話題となっていたプサイ粒子発見をいち早く確認した論文を発表。これがこの国際研究の最初の成果となった。小柴先生の下での国際共同研究は、その後PETRA-JADE,LEP-OPALと大きく展開した。小柴先生が撒かれた種は広く根を張り、直接の弟子の世代に加え、次世代、次々世代の研究者を交えて、広く素粒子・宇宙線研究を担っている。

(山田作衛・名誉教授)