最近、「喫茶店」という言葉をめったに聞かなくなりました。「スタバ、行こう!」だの、「ドトールで待ってる」だのと、若い人はチェーン店を名指しして呼ぶようです。店名が変わっても、飲むものは「コーヒー」のままなんですね。そして時折見かける「珈琲」という漢字。昭和、いや、大正の香りの漂う字面です。
舶来の飲み物にかくも長持ちの和名を与えた人は、宇田川榕菴(ようあん)。江戸時代の蘭学者です。彼がオランダ渡りの黒い飲み物の音に従って、珈琲という字を当てたとされています。珈とは女性が髪に挿す玉の簪で、琲はそれをつづる紐。そんな美しいイメージの文字なので世間に定着した、という解説を読んだことがあります。これは漢学・蘭学、双方に長じていなくてはできない芸当です。そして彼は、飲み物だけでなく、日本の科学用語をも次々に作り出した科学者でもありました。我々は珈琲だけでなく、今も研究や学習でこの蘭学者にお世話になっているのです。(前監事 北村節子)
驚くべきは、榕菴がこのコーヒーなるものを世に紹介したのが、19歳の時ということです(最初の充て字は別でしたが)。1798年生まれですから、ダーウィンより10歳お兄さん。大垣藩(岐阜県)の藩医の長男でした。当時は医業、特に藩医は代々の家業でしたが、榕菴は14歳で津山藩(岡山県)の藩医、宇田川家の養子に。彼の父親の医業の師、宇田川玄真に望まれたから、とされています。父親としては残念だったでしょうが、当時、蘭方医として随一と言われた宇田川家なら、と子の「出世」を願ったのでしょう。
養家に入った榕菴は、すぐに当時の最先端の学問、蘭学に魅せられます。養父の漢学重視の考えから漢学と蘭学、同時に励み、幼時からの植物好きと合わせて、オランダ渡りの植物学を読み込んだうえで25歳、日本では初の植物学書と言われる「菩多尼訶経」(ボタニカ経)を編んでいます。
このほか、養父・玄真とともに西洋の薬についての書物を出したり、今日の化粧石鹸に近い石鹸を作ったり、リンネの分類法に従った植物学のテキストを書いたり、と養子殿は大活躍。1823年に来日したあのシーボルトとは、江戸で一見したのを機に交流が深まり、大いに海外の書物に触れました。また、植物採集家であったシーボルトに多くの日本の植物を紹介し、彼が帰国後(ご存じ、シーボルト事件で国外追放になっています)、オランダで発表した「日本植物誌」には榕菴の知識や標本が多く取り入れられていると言います。そして1837年、天保の飢饉や大塩平八郎の乱といった騒然とした幕末、彼はドイツ語からオランダ語に翻訳されていた「Element of Experimental Chemistry」(すみません、筆者は英語でしか書けません)をもとに、「舎密(せいみ=化学)開宗」を書きました。その途中で彼は世を去りますが、死後、出された本書は内編18、外編3 という大部の化学書です。
そしてこれらの仕事の中で出てくるのが、日本初出の新しい言葉、「元素」「酸素」「窒素」等々。今も我々になじみ深い元素の名前です。みな、榕菴の造語です。思えば、日本人にとっては初めての概念。それらは「翻訳」ではなく、「意味を含んだ命名」ともいうべき作業でしたでしょう。圧力、塩、温度、気化、凝固、金属、結晶、酸化、物質、分析、法則、容積・・・・。現象の本質を把握し、それに適切な和名(漢字)を充てる。このことが日本の科学界に与えた便益は計り知れません。
「適切な漢字」という点では、養父玄真に蘭学学習を願い出た時、「まずは漢学をみっちりやれ」と言い渡された、というエピソードがその背景を語っています。コーヒーの実が赤いと聞いて、簪を意味する珈琲の字を充てたなどと言う話もその流れでしょう。この命名の才は大好きな植物に関しても発揮され、花頭、羽冠、蜜槽など、我々が生物の授業でおさらいする用語にまで及んでいます。
さて、この時期、オランダからの情報はそんなにたくさんあったの?との疑問もあるかと思いますが、かの「解体新書」は榕菴の生まれる25年ほど前にすでに世に出ていました。これが引き金になって、国内あちこちの俊英たちの「西洋の学問を知らねば」という機運は熟していたのですね。
ここで面白いことに気づきました。この時期、解体新書の翻訳者やその周辺の人間関係が実に「濃い」のです。
当時は「養子縁組」が頻繁に行われていて榕菴もその一人ですが、その養父、宇田川玄真もまた養子でした。それも、一度は解体新書の主導者の一人である杉田玄白の婿養子となっていたのが離縁されてしまっていたという「過去持ち」です。
この件については玄白自身が「蘭学事始」で言及しています。玄真は大槻玄沢には蘭学を、宇田川玄随には漢学を習っていたのですが、当時すでに最初の養家から出戻っていて落ち着く先がない状態でした。玄真の熱心さを買った玄沢はたぶんその能力を玄白にも話していたのでしょう。本業の医療で忙しくなっていた玄白が「そういう秀才に蘭学の志を継がせたい」と考えても不思議はありません。玄伯という息子がありましたが、さらに娘婿にと玄真を迎え入れるのです。めでたしめでたし。
ところが玄真は学問にも熱心ながら「身持至て放蕩」(蘭学事始)である、とのことで、時を経ず、彼は玄白にも離縁されてしまいます。なんと二度目の養子解約。
さて、またしても身分不安定となった玄真を、玄沢は仲間とともに奔走、今度は玄随の跡継ぎに据えてしまいました。翻訳仲間だった玄随は跡継ぎのないまま、40歳過ぎでなくなってしまっていたのです。宇田川家の跡取りとなった玄真はまじめに研究や仕事に励むようになり、ついには玄伯や玄沢のとりなしもあって、玄白は「再び玄白の出入りを許して交流するようになった」と記しています。こんどこそ、めでたしめでたし。
でも、大槻玄沢って、ほんとに面倒見のいい人なんですねえ。そして当時の「同業人」の結束は固かったのですね。
ついでながら、宇田川榕菴自身、若くして亡くなる晩年に養子を迎えています。その人、宇田川興斎もやはり海外の情報に詳しく、幕末から明治にかけて、列強との対外交渉で活躍したと伝わりますし、その息子(この人は実子)、宇田川準一にいたって、とうとう「物理」が顔を出します。明治6年(1873)に東京師範教員となっていた準一は、当時の物理学をまとめた「物理全志」を敢行、さらには英国の化学書を翻訳、「化学改訂」として出版。血縁のない祖父、榕菴の作り上げた「和製科学用語」を駆使して、海外の先端科学を我が国に紹介することになったのでした。
ついでのついでながら、少し時代は下りますが、やはり蘭方医であった高野長英も養子。さらに下って西洋文物を取り入れ始めた幕府に仕えた緒方洪庵となると、自分は13人も子がいたのに、同郷の優秀な青年を「義弟」としています。
江戸時代はもともと御家存続のために養子のやり取りが多い時代でした。が、蘭学・蘭方医学となると、向上心のある秀才でないと務まらない。下手をすると幕府からにらまれてお尋ね者にもなりかねない。勢い、勉強仲間や藩医など信用できる同業者の間で、有為の青年をスカウトしあっていた、とも見ることができそう。
近代日本のサイエンス界は、宇田川榕菴を得たことで西欧へのキャッチアップを果たしました。養子殿も孫君も、その期待にちゃんと応えて、今日の科学の基を築きました。未知のものへの好奇心、植物学に見せた採集などの現場主義、西洋の化学を知るためにオランダ語習得に傾けた情熱――彼とその子孫は、ここぞ、というときに現れる、血統とは別の意味の斯界のサラブレッドだったのかもしれません。
コーヒー、いや、珈琲を飲むたび、サイエンス界の先達やその周辺の人間模様に思いをはせてみたいものです。