【KEKのひと #30】山を旅して世界を知った 北村節子(きたむら・せつこ)さん 1/3

山を旅して世界を知った 北村節子(きたむら・せつこ)さん

2016年にKEKの監事に就任した北村節子さん。新聞記者の出身で、女性の立場が大きく変化していった時代に、女性の働き方、人口問題についての記事を発信し続け、また、女性として世界で初めてエベレストに登頂した田部井淳子さんと世界各地の山々を登りつめてきました。素粒子物理とは無縁だった彼女が、どのようにしてここにたどり着いたのか。じっくりとお聞きしました。
3回に分けてお届けします。

長野県出身。好奇心旺盛な性格と、母方の祖父が戦前、上田市で日刊紙を刊行していたこともあり、新聞に興味があった。お茶の水女子大学で日本史を学び、さて就職となったが、大卒の求人は圧倒的に「男子のみ」とされた時代。奇跡のように大学の黒板に、読売新聞社の「女子若干名」と書かれた記者募集を見つけた。応募を希望する学生たちが、事務室にあふれかえっていた。

1972年に読売新聞に記者として入社。女性記者は17年ぶり、一人だけ。同期の男性新人記者は全国各地の支局に配属されたが、「あのお、私はどこに?」と聞くと、「女を支局になんて出せるか」と一喝され、本社の社会部勤務に。ベテラン記者たちに囲まれ、イロハからのスタート。「大切にされる」のがいやで、わざと居残りや早朝出勤もした。そうして「地域ネタ」を拾い歩くうち、世の中の構造、表も裏もじっくり見ることで、「まあ、同年代の女性よりはいろんなからくりや人脈を知ることになったかな」と、当時を振り返る。

そんな日々の中、ネパール政府が日本の「女子登攀クラブ」に1975年春のエベレスト(8,848m)登山許可を出したという小さな外信記事が目に入った。当時許可が出るのは年に春・秋各1隊のみ。各国の精鋭の競争の中、貴重な機会を獲得した同クラブは、日本では先鋭的な女性登山者の集まり。すでに自身、冬山登山にのめりこみつつあった新米記者は早速に取材に出かけた。奥多摩のバンガローで集会をしていたクラブのメンバーは、「ごく普通の20代、30代のお姉さんとおばちゃん」に見えたが、中で朗々と語尾まで確信に満ちて話す登攀隊長の女性には、「ひとめぼれのように惹かれましたね」。登山家・田部井淳子さんだった。

「男性に頼らずに、女性だけでやってみるって、いいな」「一緒にヒマラヤに行ってみたい」。数日後、田部井さんの自宅に電話で「私を連れていきませんか?」と直談判に至った。「とりあえず家に来なさい」と招かれ、1時間だけのつもりが4時間も話し込んだ。「たぶん、あの時にお互い、なにか共振したんでしょう」。それからというもの、他の隊員たちからの「あんな新人、大丈夫なの?」との懸念の声にもたじろがず一貫して推してくれた。街での準備、夏冬の山合宿等で一緒に汗を流し、女性15人のエベレスト登山隊の一員に認められたのは、25歳のことだった。

当時、海外遠征は大金がかかるなかば「国家的事業」だった。世間からは「女にエベレストが登れるわけがない」とあきれられながら、スポンサー探しに走り、ここでも「世の中のからくりを知る」ことに。「資金、人材、いろんな段取り。遠征は、登山と言うより起業みたいなもの。マネージメントの大切さを知りました」。だが、自身の働く読売新聞社が後援してくれることが決まると、それが追い風になった。文部省(当時)、日本山岳会が後援に付き、改めてメディアの影響力を思い知った。大卒初任給6万円程度のところ、隊員はそれぞれ150万円を捻出した。「全員が有職女性だったからできた。何かをやろうと思ったら、女性も職を持っていなくちゃ」とも痛感したという。

(【KEKのひと #30】山を旅して世界を知った 北村節子(きたむら・せつこ)さん 2/3に続く)

関連記事