【KEKエッセイ #50】ノーベル賞を考える

2003年、筑波山の前に立つ戸塚洋二機構長
2003年、筑波山の前に立つ戸塚洋二機構長
今年のノーベル賞の発表がいよいよ来週に迫ってきました。第40回のKEKエッセイ「小林・益川理論とピラミッドをつなぐもの」で、小林誠・KEK特別栄誉教授と益川敏英・名古屋大学特別教授がノーベル物理学賞を受賞するまでの背景を探りました。ともに名大の坂田昌一研究室で学び、京都大学で再会して1973年に論文を発表、理論に触発されたKEKのBファクトリー実験で理論が検証され、2008年のノーベル賞につながったのでした。お二人の先生はもちろん、関わった多くの人たちにとって、長年にわたる苦労が報われた瞬間だったことでしょう。ノーベル賞は20世紀とともに始まって120年、科学界最高の栄誉であり続けていますが、その権威ゆえの弊害が指摘されることもあります。ノーベル賞について、私の取材経験をもとに少し考えてみたいと思います。(監事 辻篤子)

「ノーベル賞がなくても科学が発展したことに変わりはない。しかし、ノーベル賞は、科学の世界で重要なことが起きていることを一般の人に知らせる役割を果たした」。ノーベル賞の意義に関する私の質問にこう答えたのは、米コーネル大学のハンス・ベーテ博士でした。例えば、ワトソンとクリックは1953年に遺伝子の本体DNAが二重らせん構造をしていることを発表し、生命科学の世界に革命的な変化をもたらしましたが、多くの人々は、1962年のノーベル賞によって、生物学の世界で大変な進歩があったことを知ることになった、というわけです。小林・益川理論も、ノーベル賞で初めて知った人も多かったことでしょう。日本では湯川秀樹博士のノーベル賞に触発された多くの若者が科学を志しました。科学の世紀といわれた20世紀、ノーベル賞が科学への関心を高める大きな役割を果たしたことは間違いありません。

ベーテ博士は、原爆開発のマンハッタン計画に参加したことでも知られ、太陽などの恒星のエネルギーが核融合によって生み出される仕組みを明らかにした業績で1967年にノーベル物理学賞を受賞しました。私がコーネル大学の研究室を訪ねたのは1998年、ノーベル賞に関する連載記事の取材のためでした。朝永振一郎博士の1965年のノーベル物理学賞に博士が関わっていると聞いたからです。と言っても、直接の関わりではありません。朝永さんが受賞業績となった繰り込み理論を完成させたのは1947年、日本は敗戦後の混乱のなかにありました。ところが、幸いなことに、ちょうどその前年の1946年、日本の素粒子研究の成果を発表する場が必要だと考えた湯川さんによって「Progress of Theoretical Physics」 という英文誌が創刊されており、朝永さんの論文はその第2号に掲載されてベーテ博士のもとに届いたのです。同じテーマの仕事をしていたことからこの雑誌を渡された弟子のフリーマン・ダイソン博士は、「質の悪い茶色っぽい紙に英文で印刷されていた」朝永論文を読んだことを、忘れられない事件として自伝に記しています。「トモナガは戦争による破壊と混乱のまっただ中で、世界とまったく孤立しながら」「最初の本質的な一歩を踏み出していた」とし、それが「深淵からの声としてわれわれのもとに届いた」と感動的につづっています。ダイソン博士は同じ理論を提唱していた2人の米国人研究者の成果と合わせて「ファインマン・シュウィンガー・トモナガの理論」として論文で紹介し、量子電磁力学に貢献した業績によるこの3人のノーベル賞受賞につながったのでした。

「ダイソンの論文がなければ、おそらくトモナガのノーベル賞はなかっただろう」。ベーテ博士は言い、こうも付け加えました。「ノーベル賞はもらえなかったけど、彼はこれで有名になったからよかったんだ」と。ダイソン博士は昨年、96歳で亡くなりましたが、偉大な物理学者としてよく知られていました。ノーベル賞に3人までの枠がなければ、4人目になっていたかもしれません。大きな業績をあげても、必ずしもノーベル賞を受賞するわけではないのです。3人までとするノーベル賞の決まりもあるうえ、そもそもノーベル賞の対象になっていない研究分野もあります。2000年にノーベル化学賞を受賞した白川英樹博士にインタビューした際、「私自身、新しい分野を切り開いて、それなりの貢献はしたと思います。でも、世界中にはあまたの優れた研究があり、その中でたまたま、幸運にも受賞できたとしか思えません」と語っていました。

頭に浮かぶのは、戸塚洋二・元KEK機構長です。戸塚さんはいうまでもなく、ニュートリノ振動を初めてとらえた東京大学宇宙線科学研究所の観測装置スーパーカミオカンデ建設の中心人物です。ここでの観測でニュートリノに質量があることが示され、梶田隆章・東大教授は2015年、この功績によってノーベル物理学賞を受賞しました。戸塚さんは2008年にがんのために亡くなっており、故人を対象としない規定によって受賞の栄誉に浴することはありませんでしたが、梶田さんは「存命なら共同受賞していたはず」と語っています。カナダでの実験を率いたアーサー・マクドナルド博士との共同受賞で、あと一つの枠は戸塚さんのために空けてあると当時言われたものです。米国の栄誉ある学術賞ベンジャミン・フランクリン・メダルは2007年、戸塚さんとマクドナルドさんの2人に贈られています。

ノーベル賞の対象が生存者に限られるのは、アルフレッド・ノーベルが賞を創設した目的が、優れた研究者に金の心配をせずに研究してほしいということだったこともありそうです。そのために、大学教授の給料の何十年分という巨額の賞金が用意されました。しかし、現状では、その栄光ゆえに受賞者は多忙を極め、研究どころではなくなるという、ノーベルの意図からすればやや皮肉な結果になっています。実は一度、結果的に故人に贈られたことがあります。2011年、免疫の研究で米国のラルフ・スタインマン博士への医学生理学賞授賞が発表された後になって、3日前にがんのために68歳で亡くなっていたことがわかったのです。ノーベル賞の発表は月曜日で、ちょうど週末だったこともあって、現役教授ではあったものの訃報の発表が遅れたのかもしれません。ノーベル賞には、発表から約2ヶ月後の授賞式までに亡くなった場合は受賞者とするとの規定があり、ノーベル賞委員会は発表の時点で亡くなったことは知らなかったとして取り消しませんでした。博士の功績は免疫で重要な役割を果たす樹状細胞を発見したことで、自らの研究成果をもとにしたワクチンで膵臓がんと闘いながら、確実視されていたノーベル賞を待っていたということです。樹状細胞は新型コロナウイルスワクチンによる免疫獲得の過程でも重要な働きをしており、受賞のあるなしにかかわらず、大きな業績であることは間違いありません。

戸塚さんが受賞できなかったことは、当時、記者仲間でも大いに残念がる声が上がりました。ともすれば、ノーベル賞によって科学史が書かれてしまうことになり、そうなると、どんなに功績が大きくても、何らかの理由で受賞しなかった人の貢献が忘れられてしまいかねないと懸念する声も出ました。同じくニュートリノをめぐって、共同研究者の一人が早く亡くなった例があります。1956年にニュートリノを実験で初めて確認した功績により、約40年後の1995年、フレデリック・ライネス博士がノーベル賞を受賞しましたが、優れた実験家として共同研究したクライド・カワン博士は1974年に54歳の若さで他界していました。しかし、教科書にはニュートリノの発見者として2人の名前が書かれているそうです。ノーベル賞が評価のすべてでないことはいうまでもありません。

先に紹介したインタビューで白川さんは「他にも優れた賞はたくさんあるのに、日本ではノーベル賞だけが特別扱いされすぎ」とも話していました。日本にも日本国際賞や京都賞を始めとする国際賞が多くあり、それぞれ異なる判断基準で貢献を称えています。科学の評価は多様性こそが重要であり、ノーベル賞だけでなく、こうしたさまざまな賞にも目を向ける必要があると思います。また、梶田さんたちへのノーベル賞の発表資料では、先駆的な仕事として坂田昌一さんらによるニュートリノ振動の予言も触れられています。1962年に「Progress of Theoretical Physics」に発表された論文でした。多くの研究者による積み重ねの上に、今日の日本の素粒子研究があるのだと改めて思います。

さて、今年は誰がどんな研究成果で受賞するでしょうか。受賞者を称えつつ、そうした素晴らしい成果が生まれた背景にも広く目を向ける必要があると思っています。

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