いまから40年前の3月、フォトンファクトリーは光を出し始めました

文部省直轄の共同利用研究所として1974年に日本学術会議が設立を勧告した「放射光総合研究所(仮称)」は、電子シンクロトロンから得られる電磁波をあらゆる物質科学の研究に用いるという画期的な構想でした。従来の共同利用研究所と異なり、広い分野の研究者が共同で利用できるこの学際的な多目的研究所は、構想の時点から愛称「フォトン・ファクトリー」で呼ばれました。光の工場、略してPFです。PFは、高エネルギー物理学研究所(高エネルギー加速器研究機構の前身)の放射光実験施設として1978(昭和53)年4月に新設されました。初めて放射光が確認されたのはその4年後、1982(昭和57)年3月11日のことです。

放射光とは

私たちが物を見るのに使っているのは可視光ですが、PFで使う放射光は、可視光より波長が短い紫外線からX線と呼ばれる領域の光です。光は、電波や放射線と同じ電磁波です。電磁波の性質は、その波のひとつのパターンの長さ(波長)あるいは周波数によって大きく異なります。光の波長と周波数は反比例の関係にあり、波長が短い(周波数が高い)電磁波は高いエネルギーを持ち、逆に波長が長く(周波数が低く)なるほどエネルギーは低くなります。

放射光を得るには、まず電子を光速近くまで加速し、電磁石によって電子の進行方向を曲げます。すると、電子が描いたカーブの接線方向に電磁波が出ます。この電磁波こそが放射光で、相対論効果もあり、指向性の高い電磁波です。放射光を出すことによって電子はエネルギーを少し失いますが、消滅することはありません。効率よく放射光を得るために、真空状態の電子の通り道を作り電子を曲げるための電磁石を多数丸く並べ、電子をぐるぐる周回させます。この周回路は入射した電子が溜まっていくので蓄積リングと呼ばれます。

放射光の発生原理

放射光を使いたい

可視光に比べて波長が短い放射光は、より微細な構造を反映するので、人間の目が見分けられるものよりもはるかに小さいものを見分けることができます。物質にあたると、光はその物質の性質を反映して、屈折したり吸収されたり、反射したり散乱したりとさまざまに変化します。さらに、エネルギーの高い光をあてられた物質の中では電子状態の変化が起こります。また、それらの応答は光の波長(エネルギー)によって変わります。

そこで、波長を少しずつ変えて観察したいと思っても、放射光の登場以前は広い波長域にわたって連続した光を出すことができませんでした。さらに、放射光は普通の実験室や街の病院で出せるようなX線とは違い、超強力な指向性が高い光です。当時は科学技術に変革をもたらす「夢の光」と呼ばれました。

KEK創設のころのこと、まずX線光学や結晶学の研究者が放射光の利用を検討し始めました。その後、高エネルギー電子加速器の共同利用として、加速器・素粒子実験の研究者たちとの議論が始まり、さらに放射光を使いたい研究者たちが集まって1973(昭和48)年3月にはフォトン・ファクトリーという名前が付いた世話人会ができました。そのようにして、物質と光が作用しあって起きるさまざまな現象をさまざまな方法で観察できる放射光実験施設の構想が形になっていきました。

直線加速器とPFリング

PFが発足してから、まず建設が進められたのは、直線加速器のための長さ400 mのトンネルを持つ入射器棟でした。直線加速器は電子を光速に近い2.5 GeV(ギガ電子ボルト)まで加速し、PFの蓄積リング(PFリング)に入射するためのものです。この加速器は、のちのトリスタン計画に活用され、増強してさらにBファクトリー加速器(KEKBリング)への電子入射にも用いられることになります。

続いて、PF光源棟(半月型)の建設が始まりました。光源棟は直線加速器から届く電子を周回させる周長187 mのPFリングと、それを取り囲むPF実験ホールが一体となったものです。 PFリングは電磁石と電磁石の間に直線部分を持たせるため、楕円形になっています。当初は一周全部利用するだけの需要があるとは考えられず、実験ホールは半分だけ作られました。

当時、同規模の放射光発生専用加速器はイギリス Daresbury研究所のSRSしかなく、PFリングは当初から数々の挿入光源を導入することを念頭に置いて建設され着実に実現された最新鋭のものでした。PFリングでは多くの電磁石が、飛び込んでくる電子の進行方向を次々に曲げることで、電子に楕円の軌道を描かせます。進行方向を曲げられた電子が出す放射光を、放射光を使う研究者の手元まで導く細い真空のパイプがビームラインです。取り出し口からビームの加工を経て測定に至るまでの、放射光実験のための一連の装置群をまとめてビームラインと呼ぶこともあります。PFリングの放射光の取り出し口は28(建物の構造上、現在放射光が取り出せる口は23)あり、更にそれぞれに複数のビームラインが接続されています。(現在、PFリングが稼働すると同時に独立した38の実験が行えます。)

1981年度 PF測定器研究系の教員は6名しかいませんでしたが、全国の大学から集まった共同利用を希望する200名もの研究者が30のグループに分かれて各ビームラインの準備を進めていました。

PF初ビームまで

1981(昭和56)年の後半から年度末にかけて、将来の需要の高さを見越してより多くのビームラインが建設できるよう、PF光源棟の実験ホール部分を増築し満月型にする工事が行われていました。1982(昭和57)年1月に直線加速器が完成、次いで2月に電子ビームを2.5 GeVへ加速することに成功し、2月11日、加速された電子のPFリングへの入射が始まりました。しかし電子をPFリングに打ち込めば周回が始まるわけではなく、PFリング加速器の調整が必要です。光源棟では増築工事が中断される夜間にしか、加速器の調整が行えませんでした。連日深夜まで調整作業が続き、3月には初めてPFリングに電子が蓄積されました。1982(昭和57)年3月11日、2.5 GeVでの蓄積に成功し、実験ホールにおいて初めて放射光の発生が確認されました。同じ日、BL-12において当時の雨宮 慶幸 研究員(後にPF教員、現 高輝度光科学研究センター理事長)、安藤 正海 助教授、Peter Spieker 研究員が放射光回折実験を行い、実験ノートには透過ラウエ写真を撮影したことが記されました。初めての放射光実験の対象となった試料はケイ素(Si)単結晶とニオブ酸リチウム(LiNbO3)単結晶でした。

PFの初ビームは、テレビや新聞での報道のほか、1982年4月にはフランスのフランソワ・ミッテラン大統領(当時)が見学に訪れるなど注目を集めました。

1982年3月11日撮影した単結晶の放射光によるラウエ LiNbO3(ニオブ酸リチウム) 露出時間:1秒 (高エネルギー研月報 第11巻 第3号(1982.3)の表紙より )

共同利用実験を支える加速器技術

試験運転を経て、PFの4本のビームラインで共同利用実験が開始され、他大学の研究者が放射光を使うために訪れるようになりました。関連する学問分野は広く、物理学・化学・生物学・工学・医学・薬学・農学と多岐にわたります。

実験施設は建設して終わりではありません。特にPFはそれまでKEKが扱ったことがない加速器でした。それまでKEKが用いてきた衝突型加速器は、衝突点でのビーム性能が特に重要ですが、放射光加速器は全周に亘り高輝度・高安定が求められます。いざ実験が始まると安定したより使いやすいビーム提供が要求され、微調整や改良が欠かせないのです。PF立ち上げ当初は、不具合の対応に追われつつ装置の改良を進めなければなりませんでした。しかし、地道に装置の改良を続けるうちに、電子を加速するために必要な大電力の高周波技術の経験が蓄積され、KEKの得意分野となっていきました。

PFリングから実験ホールへ放射光取り出しのための基幹チャンネル建設のようす(1982年5月)

1985〜6年にはリング真空系の大改造、リングへの電磁石の追加などにより、ビーム電流を大幅に増やし、また、ビームのサイズと角度広がりとの積(ビームエミッタンス)を大きく下げることに成功し、放射光の輝度が大きく向上しました。放射光の輝度とは、単位時間単位面積単位角度あたりの光子の数で、輝度が高いほど明るく指向性の高い光です。

その後、PFリングの直線部に導入した挿入光源により、さらなる高輝度化が進みました。また高速で変化する物質構造の研究に有用なパルス放射光を発生できる「単バンチ運転」の開始など、放射光を使う研究者たちの様々な要請に加速器の研究者・技術者が応える形で技術革新が進みました。実験ホールでは、時代の要請に応じたビームラインの新設が続きました。

2つのリング

PF光源棟の隣にトリスタン計画のブースター加速器として1981年に建設が開始されたトリスタンARは、8 GeVという高エネルギーで運転されるため、当初からより高い(より硬い)エネルギーのX線を用いる放射光実験のための実験ホールが備えられていました。

ここでは、KEKオリジナルの挿入光源開発によって世界で初めて発生した2種の光があります。楕円偏光多極ウィグラーによる高輝度円偏光X線と、真空封止型アンジュレーターによる高輝度X線です。

1995年12月にトリスタンの運転が終わるとARは放射光専用の施設 PF-ARとして生まれ変わり、PFは2つの蓄積リングを持つ実験施設となりました。

PF-AR計画図

1990年代に入ると、世界で第3世代と呼ばれる輝度の高い放射光源が出現し始め、第2世代にあたるPFは時代遅れの施設となりかけました。しかし、1997年前半の運転を停止し、PFリング高輝度化の大改造を行い、全てのビームラインで放射光輝度を5~10倍上昇させることに成功、PFリングは第3世代光源に匹敵する性能を得ました。このときに培われた技術は世界中の後続計画の手本となりました。また、2005年には加速器の電磁石をコンパクトなものに入れ替え、挿入光源のスペースを増やす直線部増強改造が行われました。新たにできた直線部にはPFで生まれた真空封止型アンジュレーターが設置され、より高輝度の光が使えるようになりました。例えば、「はやぶさ」や「はやぶさ2」が持ち帰った小惑星試料の分析もこの高輝度光の恩恵を受けています。

研究所全景(昭和58年度高エネルギー物理学研究所要覧より)

現在に至るまで、PFはこまめなメンテナンスやビームラインのスクラップ&ビルドを繰り返しながら、進化を続けています。PFの成功に刺激され、国内ではSPring-8など多くの放射光施設が建設されました。今は第4世代の放射光施設が建設されている時代ですが、それぞれの施設の特性を活かした棲み分けが図られています。

今年、PFは、蓄積ビームとシングルパスビームの2種類を同時利用することができる新光源「ハイブリッドリング」計画を発表、加速器および放射光施設の先駆けであるKEKならではの挑戦を始めました。PFは40年前の最先端技術として登場し、多くの物質・生命科学の研究・技術開発にとって必須の研究インフラを提供し続けてきました。歴史的な実験施設というだけでなく、常に時代に合わせて育てられ、技術と経験を蓄積してきた成熟した施設と呼べるでしょう。

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