【KEKエッセイ#59(最終回)】私の30年間に分かったこと、分からないこと

私がKEKで素粒子物理の研究を始めて、30年以上たちました。この間、次々と大きな謎の解明があった一方で、いっそう広大で深遠な謎も誕生しています。あえて言わせていただければ、現在、世界の研究者が協力して進めたいと考えている電子・陽電子衝突実験・国際リニアコライダー (ILC)実験などによる素粒子分野での新たな発見がなければ社会の大変革はありません。なぜなら、この分野での新たな知見は、科学全般にわたってその根幹を変える可能性があるからです。物理学の研究は、「大自然の理解」というブロックを一つひとつ積み重ね、壮大な建造物を構築していく作業だと思います。これからも、そんなブロックをひとつでもいいから積み上げる作業に貢献できればいいなと思います。

(素粒子核物理学研究所 藤本順平)

私が最初に取り組んだのは、電子と陽電子の衝突型円形加速器実験「トリスタン実験」でした。円周上の4つの衝突点があり、そのひとつのTOPAZ(トパーズ実験)グループで研究を始めました。小林・益川理論が予測した6つ目のクォーク(物質を構成する最小の素粒子の一種)のトップクォークがまだ実験的に確認されていなかったので、そのトップクォークの存在を直接検証することが実験の目的でした。

トリスタン実験が始まる前は、クォークに関してはアップクォークとダウンクォーク、ストレンジクォーク、チャームクォーク、そしてボトムクォークの5つのクォ―クが既に発見されていました。チャームクォークの質量が約15億電子ボルト、ボトムクォークのそれが約50億電子ボルトですので、それより大きいトップクォークは300億電子ボルト程度だろうというのが私たちの予測でした。電子・陽電子衝突型加速器では、トップクォークと反トップクォーク(質量などは全く同じだが電荷などの性質が正反対の物質)が対になってできる(これを対生成といいます)ので、トリスタン実験は電子と陽電子を用いたものとして当時世界最高の衝突エネルギーの600億電子ボルト付近から実験を始めました。しかし、640億電子ボルトまで衝突エネルギーを上げても、トップクォークの対生成を確認することはできませんでした。

トップクォークはその後、衝突エネルギーが約2兆電子ボルトの米国立フェルミ加速器研究所(FNAL)の陽子・反陽子衝突型加速器テバトロンで生成が確認されました。その質量はなんと1700億電子ボルトを超えていました。現在の最新の測定値でいうと1727.6±3.0億電子ボルトです。

トップクォークの質量は、原子番号36で原子量が83.8の元素「クリプトン」の約2個分もあります。トップクォークは素粒子なのに、なぜそんなに大きな質量なのか今でも謎です。

私の博士論文のテーマは、トリスタン実験で300億電子ボルトのトップクォークが対生成された場合の衝突の起こりやすさを示す「断面積」をより正確に計算することでした。素粒子物理学では徐々に近似の度合いを上げて計算する手法をとります。当時私が学んでいた大学院研究室の教授が、この近似計算を博士論文のテーマとして与えてくれたのです。

私はまる1年をかけて、新しい積分公式を作ることから始めました。こうして世界初となる計算を終えて博士号をいただき、KEKのトリスタン実験に加わりました。トップクォーク対生成の観測は実現できませんでしたが、博士論文で行なった精密計算はミューオン対生成過程やタウ対生成過程、5種のクォークの対生成過程用に読み替えることができたので、そうした計算プログラムをトリスタン実験の各グループに提供しました。

「もうこの種の“手計算”は必要ないようにしたい」と思っていた矢先、当時の高エネルギー物理学研究所の物理理論部が、コンピュータで断面積の計算プログラムを自動的に生成するプロジェクトGRACEを始めると聞いて、私もさっそく加わりました。私が1年かかった計算を、今、GRACEでは5分で計算できます。その後、CERN(欧州合同原子核研究機構)のLEP実験やLEP-II実験のグループにもGRACEで生成した計算プログラムが提供されました。

そして2012年、CERNで万物に質量を与える「ヒッグス粒子」の存在が確認され、現代素粒子物理学の枠組みである「標準理論」の正しさが証明されました。とはいえ、多くの素粒子物理研究者は「標準理論を究極の理論とするにはまだ足らない部分がある」と思っています。宇宙には、標準模型のすべての素粒子にスピンが異なる対となる素粒子があり、それらを入れ替えても理論が変わらないとする「超対称性」とよばれる性質がある、と予想されていて、それに関連する新たな素粒子が発見されることが期待されているのです。超対称性を宇宙が持つことは大いにありそうで、GRACEは拡張されてそうした反応も扱えるように進化しています。

米国のテバトロンで見つかったトップクォークの存在は小林・益川理論の正しさを証明しましたが、KEKのBファクトリー実験もまた小林・益川理論が予測する「CP対称性の破れ」を検証して、両博士の2008年のノーベル物理学賞の受賞につなげました。

標準理論には3種の見ることも触ることもできない幽霊粒子「ニュートリノ」 が登場しますが、その質量はゼロとされています。ところが岐阜県・神岡町のスーパーカミオカンデでニュートリノ の世代間の振動現象が確認され、ニュートリノ に質量があることが明らかになりました。しかし、いまだに標準理論でニュートリノに質量を加える方法は確立していません。J―PARCからスーパーカミオカンデに人工的に生成したニュートリノを打ち込む「T2K実験」でもニュートリノの振動が確認されました。現在このニュートリノ振動現象からCP対称性の破れを引き起こす新たな要因が見つかるのではないかと期待されています。

最近、電子の仲間の「ミューオン」の磁気的性質を精密に測定した結果が標準理論の計算値からわずかにずれているという報告が米国FNALなどから報告され、堅牢だった標準理論の綻びを示唆しているのではと思われています。このため、J―PARCで計画されているミューオン実験での検証が大いに注目が集まっています。

この30年間にわたる米国や欧州による衛星を用いた宇宙観測の結果からは、ダークマター(見えないのに重力をもつ物質)とダークエネルギー(宇宙を加速膨張させる不思議な存在)が宇宙全体の約95%を占めていることがわかってきました。私たちが知っている宇宙は全体の5%にすぎなかったのです。ダークマターが素粒子の一種だとすると、標準理論にはその性質を満たす素粒子はありません。その視点から標準理論を見直す試みが続いています。でも、加速器実験からは、それを裏付ける現象の報告はまだありません。CERNのLHC実験に強い期待がかかっています。

以上のようにこの30年で標準理論の確認は着々と進められてきましたが、まだまだ分からないことだらけです。そんななか、2012年に万物に質量を与える粒子「ヒッグス粒子」がCERNで直接的観測されたことは、私にとってもとてもラッキーなことでした。