【KEKエッセイ #30】シヴァ神は素粒子物理学を踊る

素粒子物理学の世界的な拠点「欧州原子核研究機関(CERN)」の本館から少し離れた39号館と40号館の間の広場に「踊るシヴァ神」が展示されています。この像はCERNとインドとの長い結びつきを祝うため、インド政府が2004年にCERNに寄贈したものですが、ヒンズー教の神像がなぜCERNと関係があるのか、ちょっと不思議に思いませんか。実はその理由には、素粒子物理学の根幹である「場の量子論」と深い関係があったのです。(素粒子原子核研究所 藤本順平)

ラージャラーニー寺院界隈の小工房で見つけた瞑想するシヴァ神像
 藤本順平

以前、国際研究集会に参加するためスイス・フランスの国境にあるCERNを訪れた時、会場の建物の前に片足でバランスを取って立つ大きな像があることに気づきました。CERNの研究者に「あれは何?」と聞くと、「インド政府から贈られた踊るシヴァ神」との返事。印象的で美しかったので写真を撮りましたが、紛失して皆さんにお見せできないのが残念です。でも、ネットで「CERN シヴァ神」と検索すればすぐにご覧になれます。
https://cds.CERN.ch/record/745737?ln=ja

ヒンズー教は古代インドで信奉された多神教で、中でもシヴァ神は中心的な神の一人です。シヴァ神は宇宙の生命力を讃えますが、時に踊り出し、宇宙を消滅させるとも言われます。面白いですね。世界中の神話に創造の神はいますが、世界を消滅させる神をインド人は考えたのです。

その後、2014年にインド東部のべンガル湾を望むブバネーシュワルに出張した時、ツアーでブバネーシュワルのヒンズー教寺院の一つラージャラーニー寺院を訪れました。寺院に納める神像を制作している小工房の一つに立ち寄ると、ツアーガイドをしてくれた友人のインド人研究者が瞑想するシヴァ神像を指して「消滅演算子が瞑想しているぞ」と言うのです。からまった長髪に三日月を刺して穏やかな表情していました。消滅演算子は場の量子論において、場から素粒子を一つ消す数学的操作をおこないます。私はこの時やっと、なぜCERNにシヴァ神像があったのか合点がいきました。

ラージャラーニー寺院
 藤本順平

水素原子は中央に一つの陽子が居座り、そこを一つの電子が周回しています。電子は人類が最初に遭遇した素粒子です。やがて電子には物の運動を扱うニュートンの方程式や、電気や磁気の現象を扱うマクスウェルの方程式が使えないことがわかりました。そして、電子のように極めて小さい対象を扱う方程式として「量子力学」が構築されたのです。しかし、量子力学の方程式は水素原子の様子をよく再現する方程式でしたが、電子はずっと存在するものとして扱われました。実際、水素原子を観察していると電子はずっと周回し続けているので、これで十分でした。

ところが、素粒子の軌跡が実際に観察できる「霧箱」が発明されると、電子だけでなくさまざまな素粒子が宇宙から頻繁に降ってきていることに気づきました。しかも、霧箱の中でその種類や個数が変わる現象も見つかったのです。ずっと粒子が存在することを前提とした量子力学の方程式では、このように種類や個数が変わってしまう現象を扱うことはできません。そこで量子力学の発展形として登場したのが場の量子論です。

磁石と鉄の棒は互いにで引っ張り合います。物理学者は、このような電気や磁気の力の伝わり方を説明するため「場」という考えを導入しました。磁石に砂鉄をまいて観察すると、砂鉄の描く模様はN極からS極に向けて徐々に力が伝わっていく様子を彷彿とさせます。目には見えないけれど、空間には電場や磁場があり、空間を飛び超えて力が伝わるのではなく、空間そのものが徐々に力を伝えるのだという考えです。この考えから「光」が電磁場の波であることがわかりました。水素原子の電子はどうでしょう。光と違って常に一個として現れます。ところがある研究者が、光が現れたり消えたりする「場」の考え方を使えば、現われたり消えたりする素粒子にも使えるのではないかと気づきました。

電子などの素粒子は「素」ですから、どの電子も全く同じです。例えばパチンコ玉はどれも同じ玉に見えますが、よく見れば玉ごとに異なった傷があって区別できます。しかし電子はどの電子も全く同じです。一見して異なるのは「場」に存在する「数」です。もちろん電子は質量や電荷を持ち、スピンを持っていますが、そういった電子固有の性質はどの電子も同じで、区別はつきません。

場の量子論では電子が場にいくつあるという状態を記述することから始めます。そのため、電子が一つもない場に一つ付け加える数学的操作「生成演算子」と一つ消す消滅演算子を考えます。この二つの演算子を作用することで素粒子が生まれたり消えたりすると考える場の量子論が生まれました。

とても不思議な考えだと思うでしょう。でも、この考えに基づいた式を使うと、素粒子反応の頻度や運動が数値的によく再現できるのです。

「消滅演算子が働く」と聞くと恐ろしく思われるかもしれませんが、消滅演算子が働くタイミングははっきりしています。「反物質」とは、一般にある物質に対して反対の電荷を持ち、その他の性質は同じ物質のことです。物質と反物質が出会うと、その両方に消滅演算子が働きます。実は、この宇宙は物質ばかりで、反物質は安定して存在できません。ですから、消滅演算子が日常の世界で働いて消滅しまくることはありませんので御安心ください。また、高エネルギーの力を伝える素粒子から粒子と反粒子が対になって生まれますが、その時は必ず対で作られますので反粒子が過剰になる恐れもありません。

ところで、なぜこの宇宙は物質ばかりで反粒子が圧倒的に少ないのでしょうか。KEKは、電子とその反物質である陽電子を衝突させる「Belle Ⅱ実験」や陽子から作ったニュートリノを使った「T2K実験」を行うことによって、この大いなる謎を解明しようと頑張っているのです。

このように素粒子物理学者たちは消滅演算子に、そして一見恐ろしい”消滅演算子のシヴァ神”にも親しみを感じているのです。ただし、CERNが本当にこのようなことを意識して踊るシヴァ神像を設置したのかまでは、定かではありませんが… 。