【KEKエッセイ #7】メンデレーエフの日本の孫

   
今年は周期表(の原型)が作られてから150年だそうで、あらためて周期表を作成したドミトリ・メンデレーエフの偉大さと影響力の大きさに思いをはせる機会が増えそう。その功績のお話は専門の方にお任せするとして、文系人間の私としては今回も「天才の末裔」について知りえたことをちょっとご紹介します。 (監事 北村節子)

ロシア革命に露と消えたニコライ二世が来日したのは、まだ皇太子の身分だった1891年。軍艦に乗って、いわば帝王学の一端として東洋の国を見に来たわけですが、従兄で英国皇太子だったジョージ五世が長崎で彫ったという龍の入れ墨に感心し、「僕もやりたい!」と勇んでやってきた、という説もあります(実際、長崎で腕に龍を彫りました)。そのとき、随行していた海軍少尉の一人がウラジーミル・メンデレーエフ。かの大学者の子息であります。素行も成績もパッとしない息子を、父親がつてを頼って随行団に押し込んだ気配もあるらしいのですが。

で当時、欧州の中流以上の青年の間で話題になったのが、フランス海軍士官だったピエール・ロティの書いた「お菊さん」という小説です。ロティ自身、軍艦であちこちを回る際、現地恋人、現地妻を得ては、そのロマンスを小説仕立てにして出版して売れっ子になっていましたが、「お菊さん」はその日本版なんですね。ニコライ二世も「僕のお菊さん」との遭遇を妄想しながら、さすがに立場上、宗教上、控えていた様子。が、部下の青年たちはさっさと「僕のお菊さん」を得ていたといいます。そう、ウラジーミルも。

しかし、一行は日本滞在中、ニコライ二世が大津で警備の警官に襲われて大けがをするというテロ事件(大津事件)に遭遇。あわただしく日本を去ることになりました。まあ、この事件がなくとも、ロシアの青年将校たちが日本にとどまった可能性はまずなく、ウラジーミル青年も、現地妻の秀島タカを残して発ったのでした。

この後の展開は、タカという女性が残したロシア宛ての二通の手紙から伺うしかありません。すでにいくつかの研究がなされていて、それによると、彼女は青年将校が去った後、女児を生みます。そしてそのことを報告がてら、1893年にウラジーミルに手紙を書きました。哀切な手紙です。

「あなたからの手紙と21円を受け取ってうれしかった。でも、あなたがいなくなってから私にはお金がなく、生まれた娘お富士と暮らすのに、すでに240円も借金をしてしまいました・・・・連絡を待っています」と言うものです。付き合いのあったロシア語通訳が翻訳して送ったようです。調べてみたら、手紙の4年後の明治30年、小学校教員の初任給が7-8円、腕利き大工が20円前後だったそうですから、21円も結構な額ではありますが、240円となると相当なもの。母子で残されてから2年たった時期ですから、ありうる数字です。

次の手紙は1894年。今度は義父宛て。そう、ドミトリに向けてです。ここでも彼女は切々と訴えます。

「ウラジーミルからの連絡がありません。娘のお富士は元気ですが、私たちの暮らしは心細くてなりません」といった内容。そうでしょうねえ。欧州で「蝶々夫人」のオペラが初演されたのが1904年です。「白人の男性が日本女性とのロマンスを楽しむ」という蜜のひとときの陰に、幾多の蝶々さんが泣いていたことは間違いありません。事実、帰国したウラジーミルはこの手紙の後、1896年に母国で結婚。息子を得ています。もっともその子はすぐに亡くなったようですが。

そしてドミトリはどうしたか? 彼自身の言及は残っていませんが、ウラジーミルの妹のオリガが記録を残していて、「父、メンデレーエフは定期的に送金していた」「けれど、タカとお富士は東京で起きた地震で亡くなった」と記されているそうです。これは明治東京大地震(1894年6月)のことでしょうか。マグニチュード7.0。記録には31人が死亡、とあります。もしそうだとしたら、母娘は長崎から東京に移っていたのでしょうか。そしてその31人のうちに入ってしまったのでしょうか。

そうでなくて1923年の関東大震災を指すなら、ドミトリの逝去は1907年ですから、母子はドミトリの死後も長く生きたことになります。お富士が子供をもうけていても不思議ではありません。となると、もしかしたら、ドミトリのひ孫が日本にいるかも。

しかし、それをオリガが確認したかどうかはわかりません。父が死んだあと、オリガ自身が文通していたなら、もっと確実な記述があるはずです。 実は息子ウラジーミルも1898年、インフルエンザで死去しています。33歳という若さでした。

ドミトリは1869年に周期表を作っています。孫娘の存在を知った時、すでに斯界での名声は高く、1906年にはノーベル賞の候補にもなりました。しかし、手元の孫にも息子にも先立たれ、異国の孫娘も会えないままに失ったわけで、1907年、72歳で亡くなるまで、案外、孤独であったのかもしれません。

日本の孫娘、さらにはひ孫たちと会えていたら。なーんてのは考えすぎですかね。

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