【KEKエッセイ #55】不思議の国「量子ワンダーランド」にようこそ!

スペースシャトル・アトランティスの打ち上げ(2000年9月)


NASAの毎年の予算はおよそ3兆円。そんな膨大な国家予算が毎年組める背景には、NASAの宇宙開発に対する米国民の熱狂的な支持がある。宇宙飛行士はみな国民的英雄だし、ロケットの打ち上げが成功する度に全国民が拍手喝采。宇宙は人類にとって最大のそして最後のフロンティアです。一方、KEKが探索している量子の世界も同様に最大で最後のフロンティアですが、日本国民がKEKを熱狂的に応援しているとは言い難い。残念ながらKEKの名前すら知らない人も多い。この違いはどこからくるのか。人類はその誕生以来、夜空を見上げて遥か彼方の宇宙に夢と憧れを抱いてきた。それに比べて人類が量子の世界の存在を知ったのはつい百年ほど前。そのうえ量子の世界はあまりにも奇妙奇天烈で、ほとんど理解不能。とはいえ、量子の世界がいかに奇妙で、それゆえとても魅力的なことを分かってもらえれば、日本国民はKEKにも熱狂してくれると思うのです。(広報室 引野肇)

 

1990年ごろ、新聞記者だった私は毛利衛さんと向井千秋さんのスペースシャトル初搭乗をきっかけに、米国各地にあるNASAの宇宙開発の現場を何回も取材した。毎年百万人以上もの宇宙ファンが訪れるヒューストン宇宙センターはまるでディズニーランドのようだった。世界最大の宇宙飛行博物館であるハンツビルの米国宇宙ロケットセンターでは、子どもたちが宇宙飛行士の訓練を受けるスペースキャンプが開かれていた。スペースシャトルの打ち上げ基地となったオーランドのケネディ宇宙センターでは、多くの市民が打ち上げを見物したり、世界中の記者が取材したりできるよう十分な施設と体制が用意されていた。NASAのこのように充実した広報体制は、巨額な国家予算を執行するNASAにとって国民の熱狂的支持がいかに重要であるかの証でもある。

 

NASAは有人宇宙開発が好きだ。米国初の有人宇宙飛行「マーキュリー計画」から始まって、月面着陸を実現した「アポロ計画」、毛利さんや向井さんらを載せた「スペースシャトル計画」、そして宇宙空間で最先端の基礎実験を行う「国際宇宙ステーション計画」。現在は、火星有人探査計画がとり沙汰されている。これら有人宇宙計画には常に宇宙飛行士の生命の危険がつきまとうので、実験計画は慎重にも慎重を重ねられ、その開発費用と開発期間は無人宇宙実験に比べてべらぼうに膨れ上がる。このため常に、宇宙飛行士の代わりにロボットを打ち上げるべきだという議論が起こる。とはいえ、有人飛行だからこそ得られる有形無形の価値がある。最大の価値は米国民が熱狂的に喜んでくれることだろう。

 

フロンティア探索研究は基本的に基礎研究であり、その研究予算は巨額となりがちだ。だからこそ、国民の熱狂的な支持が必要となる。これが、NASAが広報活動に巨額の予算を投入する理由である。KEKも量子の世界を探索する基礎研究を進めている以上、国民の熱狂的な支持がぜひ必要だ。でも宇宙と違って量子の世界は目で見えないし、触ることもできない、そのうえ私たちの常識をはるかに超えた訳が分からない世界である。

 

ここで、量子の世界についてちょっと考えてみたい。量子の世界では、何にもないところから粒子と反粒子が突然現れたり、互いにぶつかって対消滅したり、あちらと思えばこちらにいたりと存在場所すら分からない、ばらばらに並んでいた粒子たちが突然きれいに整列したり、時間が遅く流れたり逆行したりと、私たちの常識が全く通用しない世界だ。この“チンプンカンプンさ”は、まるでルイス・キャロルが著した童話「おとぎの国のアリス」にそっくりです。

 

しかし最大の欠点は見方を変えると最高の魅力にもなります。訳が分からない世界に対して人は警戒心を持つので初めは嫌います。でも、少しでも分かると、今度はどんどん好きになります。不思議の国のアリスが世界中の子どもたちに長年愛され続けているのは、アリスの世界は全くチンプンカンプンだけど、ちょっぴり魅力的だからです。そういえば、量子の世界は高等数学の難しい数式でしか表現できない世界ですが、ルイス・キャロルは元々オックスフォード大学を出た数学者だそうです。道理でアリスのおとぎの国と量子の世界がよく似ているわけです。

 

ここにKEKが日本国民から愛されるためのヒントが隠されています。当たり前の世界は当たり前すぎてすぐに飽きます。でも、チンプンカンプンの世界はいくら探検しても謎が尽きないので、ずっと探検し続けることができます。KEKが追い求めているフロンティアはNASAが追い求めているフロンティアと遜色ないほど魅力的です。

 

NASAと聞けば、多くの人の頭の中にさまざまな映像写真が思い浮かびます。人類初の月面着陸、スペースシャトルの離着陸、宇宙飛行士たちの笑顔、ハッブル宇宙望遠鏡の写真‥。これがNASAの最大の強みです。一方、KEKと聞いて、人々の頭の中にどんな映像写真が思い浮かぶのでしょうか。残念ながら量子の世界は数式化できても、一枚の写真に表現することはとても難しいです。しかし失望することはありません。量子の世界の魅力を一枚の写真で表せないのなら、動画やストーリーで表せばいいのです。

 

2018年にマーベルが映画「アントマン&ワスプ」を公開しました。量子の世界を娯楽映画に取り上げた最初の試みかもしれません。主人公が体をアリの大きさにまで縮小する特殊なスーツを着て悪者を倒す荒唐無稽な話です。ストーリーに量子の世界で起こる不思議な現象が頻繁に現れ、量子の世界の専門用語もキーワードとなって登場します。物理学者が見たら、あまりの荒唐無稽さに噴飯するかもしれませんが、世界中の青少年が量子の世界に少しでも興味をもってくれる機会になるなら、とてもありがたい映画だと感謝すべきだと思います。

 

私は、KEKが日本国民に愛されるためには、量子の世界の不思議さ、面白さ、奥の深さを知ってもらうことが一番大切だと思います。専門用語は使わず、数式も使わず、ひたすらに楽しく、面白くです。KEKはこれまでも、小説、映画、YouTube動画、講演、落語などさまざまなチャンネルを通じて量子の世界に触れていただこうと少しずつですが試みてきました。でも私の最大の夢は、大人も子どもも楽しめるKEKの不思議の国「量子ワンダーランド」を建設することです。